中国の君主の称号の推移は,時々の政治状況や国際関係を映し出している。周の王は,天帝の命を受け,その子すなわち天子として地上を支配する者とされ,封建された諸侯の宗家として君臨した。王が天子としての責務を怠ると,代わって別姓の一族の有徳の者が改めて天帝の命を受けて天子に任命されると考えられた。殷から周への王朝交替を正当化し,その後の王朝交替も正当化した易姓革命説である。
周の衰えとともに,春秋時代には長江流域に台頭した楚,呉,越などの国が王を称した。長江流域の諸国は,周を中心とする中原の諸国とは文化伝統を異にし,南方の蛮夷とみなされたが,それだけに早くに周王の権威を否定したのだろう。戦国中期になると,中原の有力諸侯も周王の天子としての権威を否定し,王を称するようになった。彼らは,天子としての正統性を主張するため,儒家を初めとする諸子百家を利用した。従来,孔子が編纂した魯の国の年代記とされてきた『春秋』は,魯の国の年代記の形式を借りて斉の威宣王の正統を主張するために作成されたものであるとする,注目すべき見解が近年提出されている。
前221年に中国を統一した秦王政は,王や天子の称号を破棄し,君主の称号として伝説の三皇五帝から皇帝の称号を作り,宇宙の最高神にして万物の主宰者である「皇皇(煌々)たる上帝」に自らを比して君主の権威を神格化し,郡県制を全国に施行して中央集権体制の確立を目指したが,性急な集権化はかえって秦の滅亡を招来した。漢では皇帝の称号を継承すると共に,秦が破棄した天子の称号も復活させた。また,当初中央集権体制を緩め,郡県制を中央に限り,周辺地域には一族功臣を王として封建する郡国制を採用した。これによって王は,皇帝支配下において一地域を領有する,皇帝権力に従属する存在となった。郡国制の採用は,領域外の蛮夷の君長に対しても,封建制を援用して,皇帝の臣下として王などの称号を与え(冊),領土支配を認め(封),属国とする冊封と,冊封関係を中心とする冊封体制へ道を開いた。冊封体制は東アジアの国際秩序の基盤となったが,この体制は近代においてヨーロッパの国際公法体制(参照)と激しく衝突する。
その後の王朝では五胡で天王,唐で天皇の称号が用いられた例はあるが,原則として政治的権威を示すときに皇帝を,対外関係及び祭祀関係の場合に天子を併用した。また,唐では北方民族の長として天可汗の称号を帯び,北方民族王朝であった元と清ではハーンの称号も用いられた。
王朝体制の終焉後は,国家元首の称号として中華民国では大総統,主席,総統が,中華人民共和国では国家主席が用いられたが,建国後の中華人民共和国の激動を映し出して,国家主席は,党主席の毛沢東が国家主席の劉少奇より権力を奪回した文化大革命の過程で一時廃止され,その後復活して現在に至っている。
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