ドラクロワ(1798-1863)
ジェリコーの後輩にあたり、「メデュース号の筏」製作にあたっては、自らモデルの一人として協力している。ジェリコー亡きあとは、文字通りロマン主義絵画を代表する画家として活躍。革命政府、ナポレオン政府の高官を父として生まれた(タレイランが実の父であるとの説もあり)彼は革命への情熱を秘めて時事的話題も取り上げ、トルコの圧政(実は西欧人の空想の産物で、オスマントルコ帝国は歴史上もっとも異教徒と異民族に寛大な帝国であるのだが)に苦しむギリシアの人々を描いてギリシア独立戦争への支援を訴えた「キオス島の虐殺」や1830年の七月革命に取材した「民衆を導く自由の女神」の作品を残している。文学者ユゴーや音楽家ショパンなどのロマン主義者とも親しく交流したが、フランス画壇においては異端の画家扱いされ、8度目の立候補でやっと美術アカデミーの会員となったのは、1856年のことである。