土地を媒介とした主従関係。君主が家臣に封土を給与し、代わりに軍役や忠誠などの義務を課す形式を、一般に封建制度と称する。歴史的に世界各地で行われ、中世ヨーロッパの封建制と、中国の周で始まった封建制が代表的なものであるが、内容は異なる。
ヨーロッパでは11−13世紀が最盛期で、経済的には荘園制を基盤とした。君主の封土授与に対して臣下は忠誠と軍役の義務を負ったが、君主の課税を拒否する権利(日本の不輸にあたる)や、君主の役人の領内での権限行使(主として裁判権と警察権)を拒否する権利(日本の不入にあたる)を所持し、これをインムニテートと称した。
中国の周では、一族と功臣に官爵を与え、各地に配して諸候とし、国都の邑(城市)を造営させた。諸候は大夫士と呼ばれる家臣団に周辺の邑を与えて統治させた。その際、臣下は君主に対して貢納や軍役、土木事業の義務を負った。周の国家体制は、このように邑を基本とするものであり、これを邑制国家と呼ぶことがある。
両者の相違としては、特に、ヨーロッパの封建制度が自由な個人間の契約関係であり、複数の主君を持つことや、主従関係を解消することもできた双務的なものだったのに対して、中国で周代に行われた封建制度では、王侯や大夫は宗族間の血縁秩序に基づく宗法によって組織され、宗家(本家)と分家間の解消不能な片務的なものだったことが挙げられる。
その他イスラム世界では官僚に給与を支払い(アター制)中央集権的に統治する制度がアッバース朝で行き詰まると、ブワイフ朝では、土地の徴税権(イクター)を与えるイクター制が始まり、セルジューク朝で軍事奉仕の代償として授与されることが定まって以後の王朝に受け継がれ、オスマン帝国では、シパーヒー(騎士)にティマール地と呼ばれる土地の徴税権を与えるティマール制として行われた。イクター制では、授与されるのは法的には土地の徴税権のみであったが、現実にはイクター保有者はかなり恣意的に土地や農民を支配した。ただし、イクター制は世襲を原則としたものではなかったため、軍人が地方で土着権力として自立するまでには至らなかった。
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