昨晩、パレスチナから一週間前に帰った森沢典子さんに会って
数百枚の写真と共に現地の様子を聞きました。

まさに、イスラエルによる大虐殺が情報遮断の元で行われてい
るようです。

石を投げる市民をテロと呼び、戦車で撃ち殺す。

自治区から男性を移送した後に、女性、子供に向かって砲弾の
雨を降らせる。

まさに、パレスチナを名実ともに完全に消そうとしています。
ナチスにやられた同じ事をやっています。

なんとか、これを止めたいです。
自分にできることで結構です。ぜひ、サポートをお願いいた
します。

彼女は塾で子どもたちにパレスチナのことを教える際、「現地
のことを自分で見て話したい」という思いからポーンと現地に
飛んだそうです。

そこで起きている現実とは認め難い非日常を、人々の生活に入
りながらごく普通の人間としての視点で見てこられました。

彼女からのメールを転送します。
ぜひ、お読みください。

――――――――――――――――――――――――――――――

3月5日から23日までイスラエルーパレスチナに行っていました。
9月のテロ事件のあと、もうパレスチナ問題を無視できない時が来た
と私の中で認識していたのですが、実際にはほとんどその事には触れ
ずテロという言葉に人々が必要以上に敏感になる中で、テロ撲滅の名
のもとに戦争そのものがどこか正当化されていく風潮に非常に危機感
を覚えました。

また西欧文化や情報は普通に入ってくるのに対し、アラブやイスラム
についてほとんど情報がないまま、イメージだけが先行している中で
各地の紛争やテロ事件は減る様子もなく、この先アラブやイスラム
社会を理解することなしにどんな解決も共存もありえないという気持
ちが強まりました。

そんな中イスラエルが、(予感はあったのですが)アメリカと同じ理
由を掲げパレスチナへの侵攻に力を入れ始めました。

出来事としてのニュースは分かりますが、その実態は、日本でテレビ
や新聞をいくら読んでいてもつかめるものではありませんでした。
私自身、ユダヤ人のこともパレスチナ人も、彼らが朝御飯に何を食べ
ているのかすら知らなかったのですから、この問題について自分なり
に分析するための自分の言葉も経験も持ち得ませんでした。

イスラエルの主張は不透明に感じるものが多く、視点がいつも一つに
留まっていたのとパレスチナ側の主張や映像が、イスラエルと同じレ
ベルで流されることはほとんど無く不満に思っていました。

それなら自分で見てこよう。何もジャーナリストや専門家だけが現場
を見るものとは決まっていません。なかなか届かない情報を指をくわ
えて待っているのはもうやめたっと思い,もともと行くつもりだった
旅行を取りやめてパレスチナに向いました。

けれども私がパレスチナ入りした頃は、それまでで最も緊張が高まり
始めた時でした。
日本にいるとテロリストや紛争の話ばかりしか届かないパレスチナの
人々と、直接関わって彼らの本当の姿や人々の暮らしぶりを知りたい
と思っても、被害の状況など今起きていることを自分の目で見たいと
思っても、何のグループにも所属していない私が自治区や難民キャン
プに行くことはとても難しく思われました。

それでも諦らめきれずUNRWAや国連など公の機関を訪ね歩く一方
で、市民レベルで活動しているさまざまな人を一人一人伝っていくう
ち、最後に行き着いたのがNGO団体であるGIPP−PNGO(パレス
チナのための草の根運動の会)でした。

PNGOは活動の一環として、なるべく多くの人たちに直接現場を見
てもらおうとナブロスのフランス人女性クロードとラマラのパレスチ
ナ人女性ルナッドがヨーロッパ方面中心にインターネットで呼びかけ
ていたのです。

それに応えてやってきたフランスのお母さん達の団体8人と、私も一
緒にウエストバンクを廻ることしました。

そして地元のNGO―GIPPの協力の下,自治区のうちのナブロス
と、ジェニン、トウルカレムの難民キャンプや村を訪ねました。

イスラエル側の被害状況や主張が次々と報道される一方で、
パレスチナ側の取材や中継がイスラエル兵の封鎖によって制限され
なかなか実態がつかめないことに疑問を持ち、それなら自分の目で
見てこようとここにやって来たことで私たちは共通していました。

ナブロスの知事や、ジェニン、トウルカレムの難民キャンプのリー
ダー達も村の人々と共に私たちの訪問を待ち構えてくれていました。

そしてイスラエル軍による占領で被害にあった場所を訪ね歩き、夫
を殺された人や家を焼かれて泣いているお婆さんなど、一人一人から
直接話しを聞いてまわりました。

そこで実際に私が目にしたことは、自分の目で見た後でも信じられな
いことばかりで人が人に対して本当にこんなことが出来るのかと、何
度も自分の目や耳を疑いました。

けれども、これは現実として受け止めるしかなく、きちんと他の場所
へ伝えるべき重要な出来事であるという思いがつのっていきました。

この頃もイスラエル軍は、自治区を次々に封鎖占領し、毎日のように
ヘリコプターでの空爆と戦車での破壊や爆撃を繰り返していました。

占領は、いつも真夜中に始まりました。
一つの自治区や難民キャンプを、数十台、時には数百台もの戦車で取
り囲み、外部からの進入も一切出来なくなります。

そして必ず行われるのが「テロリスト狩り」と称された14才から50
才までの男性の連行です。
連行された男性は全員目隠しと手錠をされ、服も全部脱がされて腕に
番号を振られます。
イスラエル軍のバスに乗せられ連れ出される映像が、最近CNNでも
流されました。

トウルカレムでは、女子小学校も爆撃を受け、そこが投獄場所として
利用されていました。

トウルカレム難民キャンプのリーダーと投獄され出てきたばかりの
ジャマール・イッサさんの話によると、3月8日真夜中過ぎ、キャン
プは60台の戦車と4機のヘリコプターに囲まれたそうです。

ジャマールさんは、明け方の3時半に30人のイスラエル兵に家を取
り囲まれたました。

以下彼の話。

「私の捜索という名目で、イスラエル兵たちはまず両隣の家を取り壊
しはじめました。6時になる頃玄関がノックされ私がドアを開けると
数人の兵が入って来て家族を一つの部屋に集めました。
私たちの見ている前で家の中のものを破壊し、目の前に3時間座り込
みました。
その間ずっと「ここは俺達のものだ!」と怒鳴ったり叫んだり、私を
殴ったりしました。

そして私は外へ連れ出されました。他にもたくさんの人が連れ出され
ていました。みんな目隠しと手錠をされ裸でキャンプの女子学校に連
れて行かれました。
しばらくするとバスが何台もやって来て私たちはフワラというナブロ
ス付近のイスラエル領に連れて行かれ、囚われている間は腕を縛られ
立たされたまま殴られたり叫ばれたりし水も食料も与えられませんで
した。
その日連行された男は400人にのぼり、今も100人以上が拘束さ
れたままです。」

今回は6日で戻ってきましたが、これまでも何度も投獄され家を取り
壊されています。

なのに彼は私の方からこのことを聞き出すまで、自分からは何も言っ
ていませんでした。

この話を聞いたのは、トウルカレムの人々に招かれて町の小さなレス
トランで昼食を食べているときがきっかけになりました。

その時わたしは、たまたま6人のPLOのメンバーに囲まれて座って
いました。
彼らはとてもシャイで、礼儀正しく、冗談ばかり言っていました。
そして私が日本から一人で来ていることにとても驚いたり、丸い目で
日本のことをいろいろ尋ねたり、どんどん食事をすすめてもてなして
くれるのでした。

けれども私がチキンのおかわりを、もうおなかいっぱいだからと笑っ
て断ると、周りの人がみんなでそのチキンをジャマールさんのお皿に
のせて「おまえは牢獄から出てきたばかりで栄養つけなくてはならな
いからもっと食え食え!」と冗談を言ったりしていたので投獄の事実
を知り、食後に話を聞かせて下さいと頼んだのです。

どこを訪ねても、占領の方法は同じやりかたでした。
シャロン首相は「テロ対策」と銘打って行っていますが、実際には学
校や病院も爆撃を受けていました。
完全に封鎖し人々を閉じ込めて、男達を連れ出して無抵抗の状況を作
り出していっせいに攻撃をするのです。
ですから、もちろん政府関係の建物や警察署などはめちゃくちゃに破
壊されていました。
そしてたくさんの人が殺されています。
武器も押収していきます。

彼が連れ出された3月8日、トウルカレムでは17人が殺され100
人以上が怪我をしました。
封鎖されたキャンプの入り口では、救急車の進入が戦車によって阻ま
れ、怪我人を運び出すことも出来ません。
今月に入って国連が、救急活動の妨害に対して非難をしていましたが
実際には妨害だけではなく、救急車も爆撃を受けています。
トウルカレムでは、救急車が正面から銃撃され運転手の頭が半分吹き
飛び、アシスタントは入院、もう一台は戦車に直接追突され、グシャ
リと潰れていました。この追突の瞬間を捉えた写真をある女性がたま
たま撮影し、エルサレムポストにも載りました。

ジェニンでは、救急車が戦車によって爆撃され、救急センターのデイ
レクターが殺されました。センターの方にその時の写真を見せてもら
いましたが、頭や顔まで真っ黒に焼け焦げた姿には面影など何も残っ
ていません。
彼は、9才の女の子を救出に向う途中でした。
けれども救出を待ったまま、その女の子も亡くなりました。もちろん
そうなることを狙って、救急車を攻撃してくるのです。
彼らの意図はテロの撲滅ではなくて、パレスチナ人の撲滅であること
がだんだん分かってきました。
うすうすは気づいていましたが、本当にこの現代社会で、民主主義を
唱えている国が総力を尽してそんなことが出来るとは、どうしてもイ
メージできませんでした。

私たちは、殺されたデイレクターの家族も訪ねましたが、力なく肩を
落としている年老いた彼の母親にかける言葉もみつからず、ただ手を
握り、見つめあうのが精一杯でした。私は悔しくて背中が震えてしま
いました。

ジェニンキャンプでもUNRWA(パレスチナ人のための国際支援団体
日本もたくさん援助している)の女子小学校を訪ねましたが、もち
ろん戦車によって爆撃を受け校庭も校舎も銃弾の跡で穴だらけでした。
フランス人たちは、イスラエルに対して請求書を送ると言っていまし
た。そして、一番援助している日本の政府は、抗議をしないの?と言
いました。

ある女の子が、私にノートを見せてくれました。
彼女のノートは、銃弾を受けびりびりに切り裂かれていました。
そしてその裂け目の間に、まだ弾丸がくいこんだままでした。
彼らは、授業中の小学校を銃撃したのです。たくさんの子どもが殺さ
れ怪我をしています。
もちろん、病院へ運ぶどころか、助け出すことも阻まれます。助け出
そうとするものは容赦なく撃たれてしまうのです。
この日UNRWAのジェネラルデイレクターが駆けつけてキャンプに
入ろうとしましたがイスラエル兵はそれも拒みました。

このジェニンキャンプは、わずか1平方kmの土地に15000人も
の難民の人々が肩をひしめきあって生活しています。
皆1948年以降、イスラエルにより土地を奪われ難民となった人々
です。

3月4日に占領侵攻され、同じようにたくさんの人が殺されましたが
ここでは死体をキャンプの外にある墓地に運ぶのを、イスラエル兵
によって阻まれました。
それで仕方なく、キャンプの中の可能な場所に埋めて人々はお墓を作
りました。

ところがそのすぐ後イスラエル兵は、戦車やブルドーザーでそのお墓
を掘り返し破壊していきました。
私は、掘り返されてまだ間も無いそのお墓の、写真を撮る他に何も出
来ませんでした。

フランス人の母親達が帰国した後、私は一人でベツレヘム、そしてガ
ザにも行きました。
ウエストバンクの状況を見て、ガザはもっと悲惨であろうことが予想
できたのでどうしても行く必要がありました。

一人で行動しないように言われていたので一緒に行く人を探しました
が、見つけることが
出来なかったので仕方なくあちらのNGOオフィスの住所の書かれた
メモを一枚もって一人で行きました。

ガザは、エルサレムから車で一時間半程南に走ったところにあります。
朝一番に乗合タクシー(セルビスと言って時間で走るのではなく、同
じ方向に向かう乗客が集まり車がいっぱいになったら出発します。)
に乗り込んで待っていましたが、予想通り一人のお客も来ないので、
一人乗りタクシーで向いました。こんな時にガザに行く人などいる訳
もありません。

ガザの入り口は、イスラエルに完全に制圧され大きなターミナルがで
きています。
まるで空港のような厳重なチェックを受け中に入らなくてはいけません。
占領時でなければ外国人である私たちはチェックさえきちんと受けれ
ばたいていは自由に出入りできますが、パレスチナ人は自由に出入り
ができません。
物資の出入りもイスラエル軍にコントロールされています。

その日ターミナルには、イスラエル兵達と私の他は誰もいませんでし
た。

さて、ガザの南北を走るメインロードはかつては三本ありましたが、
今では一本しか使えません。
後の二本は、入植者「セットラー」(植民地政策でパレスチナ自治区
に不法に建てた家に住むイスラエル人達のこと)のための専用道路と
して、獲られてしまっています。

パレスチナ人は残りの一本の道路しか使うことが出来ないのですが、
それさえ南北の中間地点カラーラが封鎖されたり、開いていてもイス
ラエル兵の審査を受けなくては通れません。

いわゆるチェックポイントです。

今は占領のことを取り上げられることが多いのですが、占領時でなく
ても実はチェックポイントによるこの封鎖こそがパレスチナ人の生活
に壊滅的な打撃を与えています。

これにより観光客はもちろん人の流れも物資の流れも制限され、街は
活気を失い人々の心は荒んでいきます。

生活に使う水と、病院では特に酸素や輸血用の血液が深刻に不足して
います。農作物の収穫期には、収穫のために農場へ出るのを故意に阻
まれ作物が腐るまでそれは続きます。ですからガザでは、世界一の人
口密度にまで追いやられた狭い土地の中で農場や牧場を確保し、自給
自足に近い生活を強いられています。

しかしガザ国境付近にイスラエルは公害を伴う工場を建設し、その環
境汚染が深刻とも言われています。内部で収穫した食物や水が汚染さ
れていることをみんな分かっていながらどうすることもできないと言
います。

特にイスラエルのデイモナ工場による空気汚染で、ガザ南部国境付近
にあるクザール村では、主に子どもとお年寄りに背中に異状を来たし
、立つことができなくなる障害が多く見られると聞きました。真偽の
ほどは分かりませんが、私はその症状を持つ6才の女の子とお婆さん
に会いました。

閉じ込められたコミュニテイと汚染のため、ガザでは障害を持った子
どもの出生率がひときわ高いそうで、訪ねた家のほとんどに障害を持
った子どもがいました。

クザール村で起きた3月8日の占領時、家族が三人殺されたというお
宅を訪ねました。
殺されたのは、ハリード・カデイアさん、カハリードさん、ムハマード
さんの三人でこの夜、残された家族が全員広間の床に座り、ハリードさ
んのお父さんに当たるカマールさんが私にその時の話をしてくれました。

「3月8日のことでした。
真夜中過ぎのことです。パレスチナの救急車が村に入ってきました。
けれども中から出てきたのはイスラエル兵士たちでした。
そして村は70台の戦車に囲まれていました。ここは農場地帯だったの
で見晴らしがよくほとんどの人は村から逃げることは出来ませんでした
ので、家の中に逃げ込みました。
だから殺すのにたやすかったのです。
彼らは5つの家を選び入ってきました。何故ならそれらの家は高台があ
り村が見渡せたからです。彼らは犬も連れていました。
家に入ると彼らは男達に服を脱ぐように言いました。そして腕を後ろに
縛り目隠しをしました。
家族を一つの部屋に入れ二人の兵士は銃を女と子どもに向けていました。
戦車は村の全域を占拠していました。
そしてイスラエル兵士はモスクに入りスピーカーを使って、外に出てく
るように叫びました。
武器や銃を使わないとも言いました。
アラビア語で言いました。

それで人々は外へ出ました。東から37台の戦車、10台の装甲車、
3台のバスが入って来ているのが見えました。
次の瞬間、全てが砲撃を始めました。女、子ども、犬、豚もヤギも撃ち
ました。
ハリードは足を撃たれました。
まだ生きていたので助けようとしました。
けれども私の目の前で、戦車が彼を轢いていきました。
そして彼の頭や顔や胸はすべて潰れ、道には形も何も残りませんでした。
彼を助けようとするものは容赦なく撃たれました。

私は泣き叫びました。
それを止めようとして走ってきた親戚も撃たれて死んでしまいました。

ムハマードは20発も撃たれましたが、まだ息はありました。
けれども誰も助けることも病院に連れて行くこともできませんでした。
何故なら村の入り口で、救急車も何も入れなかったからです。
たくさんの人が怪我をしましたが血が足りなかったのでみんな死んで
しまいました。

ただ殺されたのです。私たちは兵士でもないし何でもありません。
ただ来て殺したのです。殺して出ていったのです。捜査などありません。

言い忘れましたが、ガザ南部のソルジャーもその夜殺されました。
彼はここで何が起きたのか見に来たのです。そして足を撃たれ病院に
運べず死にました。(救急活動ができないので)足を撃つだけで十分
殺せるのです。

その夜18人が殺されました。たった二時間の間に。今は100人以
上の人がナーサルホスピタルにいます。

どのパレスチナ人の家もみんな同じです。農場も壊していきました。」
(実際の死者は16人そのうち5人がパレスチナ警察)

殺されたハリードさんは結婚したばかりで、家には奥さんと生れて20
日目の赤ちゃんが残されていました。

その小さな小さな赤ちゃんを腕に抱いて、私は怒りと無力感にうちのめ
されていました。

この他にも話しはたくさんあります。ありすぎて書ききれません。
もちろん関心をお持ちの方には積極的にお話ししますので声をかけて下
さい。
写真もありますのでお会いしてお話するのでも結構です。

デ・アル・バラという北部の地域に散布された毒物とその影響を受けて
いるというたくさんの妊婦さんや子ども達のことも気になっています。

どの話も裏付け調査が必要なのですが、クザール村を訪ねたのは夜九時
を廻った後でしたし翌日は午前中にはガラーラのチェックポイントが閉
まってしまうからと、駆け足で学校と病院をまわり、皆に背中を押され
るように北へ向いました。
何故こんな状況なのにパレスチナで出会った人達はこんなにも暖かいの
か、私を守ろうとするのか持っているものを分け与えようとするのか、
何故私だけが別の世界へ逃れていけるのか虚しい気持ちいっぱいでエル
サレムに戻りました。

けれども、クザール村の話があまりにひどく、さらに何処の新聞社のア
ーカイブを調べてもその事に触れていなかったので、すぐにパレスチナ
の人権団体と、その時日本で執筆中だった広河隆一さん(パレスチナ問
題について35年間取材やさまざまな活動を続けているフォトジャーナ
リスト、現在はパレスチナで取材中)にメールをしました。
翌朝すぐに広河さんから電話がかかって来て、これは大変なことだから
、パレスチナ側だけでなくイスラエル側のジャーナリズムにも伝えた方
がいいと言われ、ハアレツ・デイリーの編集者エウードさんを紹介して
下さいました。
エウードさんはその日すぐにテルアビブから、エルサレムまで駆けつけ
てくれました。
私は、聞いたことをそのまま話しました。

彼はすぐに再調査のための人を送ってくれました。私も一緒に行きたか
ったけれど、出国前日だったので後はお任せすることにしました。

日本に戻ってから、村で殺された総数にずれがあったものの残念ながら
その出来事が事実であったことを知りました。

さてパウエル長官がいよいよイスラエル入りしシャロン首相と会談しま
した。

ずっとイスラエルを支え、大変な軍事国家に育て上げたアメリカの国務
長官が仲介に入るのですから、パレスチナの未来にとって本当に明るい
選択肢をきちんと用意してくれるのかとても不安です。

シャロン首相は一部撤退を行いテロ根絶を訴えながら、その傘下で、パ
ウエル長官がイスラエルにたどり着くまでの間に駆け込み的に攻撃の手
を強め、特にジェニンキャンプで大変な殺戮を行い、今現在も続けてい
ます。
外部からの進入は、取材陣でさえ一切出来ないということがどういうこ
とか私にははっきりとわかります。
ほんの一月前会って、一緒にたくさんの話をした一人一人のあたたかい
眼差しが私の頭を廻っています。その人たちの身の上に今起こっている
ことを思うと本当に胸が張り裂けそうで、何も手につきません。
あの時もジェニンキャンプは大変な打撃を受けていましたが、そんな状
況の中で人々は木々をきれいに刈り込み、花の手入れをし、コーヒーを
飲みながら穏やかに家族や友人達と過ごす時間を楽しんで、私たちと目
が合うと「ウエルカム!」とコーヒーを差し出したり、笑いかけたりし
ていました。
難民キャンプの子ども達が、うれしそうにニコニコ私たちの後について
くるのですがフランス人の女性がチョコレートを差し出すと、控えめな
声で「ノーサンキユウ」と丁寧に断るのです。
私がこれまで他の経済的に貧しい国で出会った子ども達のことを考えると
、これは相当なことだと思いました。
日本の子どもだって、差し出されたチョコレートを「結構です」と丁寧
に断れるとも言えません。
彼らは、何もかも失っても、誇りは失っていませんでした。
それはイスラムの精神と、パレスチナの母親の教育の水準の高さによる
ものだとどのパレスチナ人に会っても感じた今回の新しい驚きでした。

その人たちを、今次々に殺しているのです。そして誰にも止めることが
できないなんて。
これだけ国際社会の目が光っていながら、何故こんなことが続けられる
のでしょう?
どうして誰もそこへ派遣しないのでしょう?
私が特使だったら、まずそこへ向うでしょう。不当な制限を解き事実を
見るでしょう。
特使の権限は、そのためにあるんじゃないのですか?

ジャーナリズムを含む、他のものの進入を一切阻む理由として、パレス
チナ人が爆弾を抱えイスラエル兵も10数人死に、危険だからだと発表
していますが、ちょっとでもジェニンの人々の立場に立てば、閉じ込め
られた世界の中で、救出の可能性を全て絶たれた絶望的な状況を想像で
きるはずです。これは本当に恐ろしい出来事です。

ただ死を、破壊を、すべての物の喪失を待つばかりの彼らの恐怖心や絶
望感は、計り知れません。
わたしも居たたまれない気持ちで何日も眠れずにいます。
家族を殺されたり自分が無駄に殺されるのならばと、最後の抵抗の手段
として爆弾を抱えてイスラエル兵の到着を待つのはむしろ当然ででしょう。
ほかに何が出来るというのでしょう。
今ジェニンの人々をそこまで追い込んでいるのは、他でもないイスラエ
ルなのです。

ラマラの友人からの電話だと、死者は7〜800人に達し死体も運びだ
せず腐乱し始めているということです。
広河さんのホームページで公開されている記事によると、未確認情報で
は死者は1000人に及ぶとも言われています。
イスラエル兵は、ここで起こっていることを国際社会が見たら決して許
さないだろうと
恐れをなし死体をブルドーザーで埋め、清掃を始めているということです。
ブルドーザーで!彼らはゴミではありません。
けれども、ブルドーザーでの清掃行為そのものが、死体の数の多さを物
語っています。
ジェニンでのこれらの行為は、イスラエルに今後何年も重い十字架とし
てのしかかるでしょう。

テロ根絶を理由に占領地からの撤退を拒んでいるシャロン首相ですが、
今の状況のもともとの原因は、イスラエル側のオスロ合意に違反する圧
倒的な占領と植民地政策、そして一昨年のシャロンによるアル・アクサ
神殿訪問にある事を忘れてはなりません。

アルアクサ神殿は、毎週金曜日にイスラムの人々がお参りに来るとても
大切な場所です。
そこにシャロン首相は警察を伴って入り込み、抗議のために立っていた
パレスチナ人に発砲、翌日は金曜日でしたが、シャロンはさらにそこに
軍や警察を送り込みお参りに来た人たちに無差別に発砲、パレスチナ人
にとって最も神聖な場所で死傷者を出し流血の事態を引き起こすという
大変な挑発行為を行ったのです。
その事に抗議して始まった民衆運動が、今回のアル・アクサ・インテイ
ファーダです。

シャロンはその民衆蜂起を「テロ」と位置づけ、封鎖占領を繰り返して
きました。
また、かつてのレバノンキャンプでのパレスチナ人大虐殺を指揮した張
本人もこのシャロン首相に他ならないのです。

そして現在まで圧倒的な経済力と武力で主張を押し付け、パレスチナ人
の基本的な人権生きる権利、自由、生活を国を挙げて奪ってきました。
物資や人の流通を不当に阻み、教育を阻み、救急活動までも阻止してき
ました。
民主主義を掲げている国がです。
どんな政治的主張があるにせよ、それが正しくても間違っていても、と
にかく今すぐ占領をやめて欲しいと強く思いました。
けれども大きな銃の前で、私だって何も言えなかった。
暴力の前に、自由な言葉や心の行き交いをねじ伏せられるということの
私の初めての体験でした。
家族や自分の命、生活、家が奪われる人々の思いは計り知れません。

もちろんパレスチナ人も必死で抵抗しています。
主な武器は石、銃などですが、軍を持たない彼らは自爆という武器が
精一杯であり、最後の手段なのです。
けれども私が見たほとんどのパレスチナ人の本当の抵抗は、爆撃されて
も家族が殺されても、壁の無い外から丸見えの部屋でコーヒーを入れ、
翌日から仕事に戻り、もくもくと瓦礫を片付け、冗談を言って笑う。
人を受け入れもてなし、花の種を植える。
人としての尊厳を失わず誇り高く生き続けユーモアを忘れない、そん
な精神的抵抗でした。
本当にみんなよく我慢しています。
そしてそれこそがイスラエル兵を焦らせヒステリックにさせていると
いうのが、援助に駆けつけているたくさんの、ヨーロッパ人を中心と
する外国人たちとわたしの間での共通の認識でもありました。

何故国際的な協議の場やジャーナリズムでは、占領(虐殺)とテロ
(一つの爆弾)を同じ天秤にかけるのでしょう?
圧倒的な武力の前で、一つの抵抗も許されないというのでしょうか?
もちろん市民を狙った自爆行為を、私も受け入れることはできません。

けれども外国から特使が来るとなると直前に、シャロン首相は必ず挑
発行為を繰り返してきました。
そして今回もパウエル長官がイスラエル入りする直前にジェニンでの
大量の殺戮を行いとうとうキャンプのリーダーを殺しました。
この行為は確実にパレスチナ人の抵抗運動を引き起こすでしょう。

わたしは、今起きていることは戦争ではなく、迫害と虐殺だと認識し
ています。

そしてもしもこれを今国際社会に止めることが出来なかったら、私た
ちは歴史の中でホロコーストから60年たったこの時代に、私たちの
時代に、もう一度同じ過ちを今度はユダヤ人の手で犯してしまうこと
を許してしまうことになるのです。
それは同時に、私たち自身の過ちにもなります。

さらに、テロ行為を理由にアラファト議長率いる現在のパレスチナ政
府を「悪」と位置づけ排除したのち、アメリカやイスラエルにとって
都合のいい政府を送り込み、都合のいい和平をどさくさに結ぶ。そん
な骨抜きパレスチナ建国の懐疑心が止みません。

アメリカがとった、アフガニスタンや戦後の日本の国作りと同じシナ
リオを見ているようで身震いがします。
素人感覚の考え過ぎだといいけれど。

それとも追いつめるだけ追いつめて、パレスチナの人々に、明日のパ
ンのためのあきらめに近い和平を強いるのでしょうか?

50年近く戦ってきた彼らの長い長い苦しみはこれからも続くのでし
ょうか?

明日(4月14日)パウエル長官とアラファト議長が会談します。

森沢典子

追伸

一緒にウエストバンクをまわったフランス人のクロードは、今もアラ
ファト議長が軟禁されている場所で外国人30人ほどと共にイスラエ
ル兵からの盾となり、議長と寝食を共にしています。

また私の話を聞いて、国連事務所の東間史帆さんがPNGOのような
組織をずっと探していたとよろこんで下さって、二人でラマンラのオ
フィスに訪ねたのですが、今はさっそく日本からの視察ツアーを企画
しています。

また、エルサレムに助っ人で飛んできた朝日新聞社の特派員の方たち
にもPNGOの活動のことを史帆さんが伝え取材が入り、今週新聞で
大きく取り上げられました。

さて、私自身ですが、今後どのような活動が可能か考えています。

再来週は母校の青山学院女子短期大学で学生さんにお話する機会をい
ただきました。
児童文学者で恩師でもある清水真砂子さんがすぐに自分の授業を提供
して下さったのです。
私から話を聞くことを「贅沢なこと」と表現し、受け入れて下さった
こと本当に感謝しています。

明日は、渋谷で10代〜20代の人たち中心でやっているピースウオ
ークの中心メンバーと会います。

何かほかに方法や機会があったら、是非ご助言下さい。

森沢典子 <midi@par.odn.ne.jp>

――――――――――――――――――――――――――――――


(以下、森沢さんと知人とのやりとり。森沢さんがどんな人か教えてほしいとお願い
したことへの回答として送られて来たものです。)


-私は、10年ほど幼稚園の教諭でした。
この一年は、母の仕事を手伝って、近所の子ども達を
集めて小さな塾をやっています。

今後の活動と報告を添付しましたので合わせてご覧ください。
また、4月26日発売の「週間金曜日に」今回のレポートの一部と
クザール村で証言してくれたカマールさんの写真が掲載されます。

森沢典子


お返事をいただきありがとうございます。反響の大きさに
驚いています。

けれども、日本人は反応がないとよく言われますが、政府レベルの
交渉ごとや軍事などの大まかな動きなの報道よりもむしろ
私たちと同じ目の高さ、市民レベルのこうした事実にこそ
心を動かされる方が多いのだということも知りました。
また、パレスチナで会った人々が報復を恐れ、私が訪ねたその時まで
誰にも事実を告げられずにいたこと、そして話してくれた時の眼差しの
熱さを思うたびに、これらのことが少しでも多くの方に伝わり、大きな波
にしていけることを切望して止みません。

ですから転送、ホームページへの掲載についてのお問い合わせが
多いのですが、もちろん歓迎です。
メールアドレスも載せていただいて構いません。


一日20件ほどずつ、いろいろな方からお便りが届いています。
ありがとうございます。
お返事を書くのが追いつかずすみません。
少しずつ返信しています。
お急ぎの方は、催促ください。

昨日のCNNでブッシュ大統領が「シャロン首相がアラファト議長
を監禁、包囲する気持ちが良く分かる。シャロンは平和的な人
物だ。」と発言し耳を疑い唖然としてしまいました。
こんな一言が一度に数億人のもとに届き鵜のみにされてしまうことを
思うと恐ろしくてなりません。
何故、このような人にこんな大きな発言権を持たせてしまったので
しょう?
私たちのネットワークは、もちろんCNNには及びません。
でも、じわじわと広げていくことは可能です。
また、はっきりNOと言うことは言いましょう。
地元の政府に、新聞社やテレビ局に、まわりに告げるべき
相手は少し探せばたくさん見つかるはずです。
沈黙は、現状を受け入れていることと同じなのですから。

先週ローマでは5万人、チュニジアでは8万人しかも先頭に政府与党が
全員立って歩き、「今私たちに出来ることはデモと献血だ。」とみんなで
揃って献血し、パレスチナに送りました。
フランスは毎日各地で数千人、イランは数万人、イギリスも20代中心に
大きなデモが行われています。

また、大学での聴講を申し出て下さっている方も多くいらっしゃいますが
もちろん歓迎いたします。
本来私は、大学で講義を持つような立場のものではありませんので
普通だったら遠慮するところです。でも、パレスチナの人々の声は
届いていなかった。
だから会って私に直接話してくれた人々の声は出来る限り届けるつもりです。
ですから今回に限ってはマスメデイアの力に遠く及ばないものの
地道に、どのような形でも、機会があればお話したいと思っています。

下記の予定になっています。

青山学院女子短期大学

4月25日(木)9:00〜、13:20〜
26日(金)16:30〜

慶応大学日吉校舎

5月9日(木)9:00〜
森沢典子

以上、森沢さんのメールからの転載です・。


以下、関連事項で2件。
まず一つ。(以下、転送そのままです)

イスラエルの拒否に負けずに、
ジェニンの調査をしてください!!
ってメールで署名しましょう^^。

http://www.petitiononline.com/JENIN/petition.html

で、国連人権高等弁務官あてに署名をあつめています。
(英文です)
青い四角(click here to sign Petition)をクリックすると、
署名のページに行きます。
名前とe-mailアドレス、コメント(これはオプション)
を入力。preview your signatureをクリック。
次のページで、approve signature をクリック。著名完了。


以下2つめ。

今森沢さんに三重で講演をしていただけないかと考えているのですが、まだ
実現の運びに至っていません。
今月京都で森沢さんの講演があります。それを聞きに行こうと思っています。
以下その日程を付け加えておきます

「パレスチナは今どうなっているのか」
森沢典子さんの現地報告会

日時:5月18日(土)午前10時より12時
場所:法然院(京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町)
参加費:700円
主催:森沢典子さんを京都によぶ会
連絡先:090−8759−2257(kubota)

会場案内:075−771−2420
JR京都駅・阪急河原町駅・京阪三条駅より
市バス5系統:岩倉行き浄土寺下車。大文字山に向かって疎水 哲学の道を越え、徒
歩10分

阪急河原町駅より
市バス32系統 銀閣寺行き南田町下車 徒歩5分