ホメロス(前8世紀)

前8世紀の最古にして最大の叙事詩人。トロヤ戦争での英雄たちの活躍を歌う『イリアス』、トロヤ戦争の英雄オデュッセウスの苦難に満ちた帰還の物語『オデュッセイア』で有名。盲目の詩人であったと伝えられているが、実在を疑う説もある。その叙事詩はポリス成立期に、それまで様々に伝えられていたエーゲ文明時代の口伝が集成されて成立したと考えられる。さて、受験世界史で、ヘレニズム期の彫刻の代表としてよく出題される「ラオコーン像」は、実は『イリアス』中のエピソードに基づいた作品である。この像は大蛇に絞め殺されようとしている人物の苦悶を捉えた傑作とされるが、ではなぜ大蛇に絞め殺されるという普通 では考えられない目にあっているかというと、彼ラオコーンはトロヤ側の神官であったが、一人ギリシア側のトロイの木馬の奸計を見破り、木馬を槍でつつこうとした。ら、ギリシア側を応援していたアテナ女神が怒って、その使いである大蛇をしてラオコーンとその子を絞め殺させてしまったんであると。97年南山大の正誤問題でこの内容が出題された。出すな。そんなもん。


ヘシオドス(前700年頃)

前700年頃の農民詩入。父の死後、相続争いをした無頼の兄弟に対し訓戒する形式で、貴族を批判し、労働の尊さを歌った『労働と日々』で有名。彼の存在自体が貴族に対して平民が台頭しつつあったことの証明である。また、宇宙の始まりである混沌のカオスから、ついにはゼウスが統率する世界が成立するまでを詩って、ギリシアの神話や伝説を体系的にまとめた『神統記』の作者でもある。


サッフォー(前612-)

ギリシア叙情詩を代表する女流詩人でレスボス島の出身。少女たちを集め、音楽や詩を教える一種の文学サークルを主催した。彼女の叙情詩(殆ど断片しか伝わっていないが)はその少女たちへの恋愛感情を歌ったものが多い。レズビアンやサフィズムいう言葉はここからきている。もっともちゃんと男性と結婚して子供も産んでいて、愛児をいとおしむ詩も作っているから女性オンリーというわけではなかったらしい。美青年に恋し、振られて崖から身を投げて死んだ…というのは後世作られた伝説である。


アナクレオン(前560頃-?)

前6世紀〜5世紀初にかけて活躍した叙情詩人酒や恋をおもしろおかしく歌う作風で、後世アナクレオン風という言葉を生んだほど、多くの愛好者と模倣者が出た。


ピンダロス(前518-前438)

前5世紀に活躍した叙情詩人である。オリンピア祭典の勝利者を称えた『オリンピア賛歌』が古代詩人の作としては珍しく完全な形で残っていることで知られる。


アイスキュロス(前525-前456)

前5世紀、アテネがペルシア戦争に勝利し、全盛期を迎えた時代に活躍したギリシア三大悲劇詩人の一人。マラトンの戦いにも参加し、それを生涯の誇りとする。最古の作品である「ペルシアの人々」は,ペルシア戦争のサラミス海戦でのクセルクセス遠征軍とその敗北が題材。また自作の上演にあたっては、自ら俳擾として演じたことが知られている。代表作『アガメムノン』はトロヤ戦争の総大将でありながら、勝利して帰国した時、従兄弟と、従兄弟と浮気していた妻の両人に殺されるアガメムノンと、その息子で母と叔父を倒して父の仇を討つオレステスの伝説に取材したものである。



ソフォクレス(前496-前406)

ギリシア三大悲劇詩人の一人で、ペリクレス、フィディアスとともにぺリクレス時代を代表する人物。市民としても、幾度か将軍に選ばれ、ぺロポネソス戦争にも将軍として活躍。代表作は『オイディプス王』。テーベの王、オイディプスはテーべを襲った疫病(ここにはペロポネソス戦争初期アテネを襲った疫病の恐怖が反映している)の原因が先王を殺した下手人の汚れにあることを知り、探索を進めるうちに自分こそがその下手人であり、しかも自分が父を殺し、母と結婚するであろうと予言されていた宿命の子で、先王が自分の実の父、そして自分が結婚した女が実の母であることを知る。ために彼は自らの両目をくりぬいて、荒野をさまようことになる…この悲劇は一人の才能に満ち溢れた正しい人物が、善意と正義にもとづいて行動しながら、なお神(運命)からおそるべきしうちをうける様を描いて、ギリシア悲劇、ギリシア運命劇の最高傑作とされる。なおここから、心理学で父に反感を持つ一方で母の愛を得ようとする男児の心理をエディプス=コンプレックスと呼ぶようになった。ちなみに、心理学の用語にはこの手の文学関係のものが多くて、サドはフランス革命期、「美徳の不幸、悪徳の栄え」「ジュスティーヌ」などの作品を残したマルキ=ド=サドの名から。マゾは世紀末の歴史学者にして「毛皮を着たヴィーナス」の著者ザッヘル=マゾッホから。ロリータ=コンプレックスは、ロシア革命による亡命貴族にしてアメリカの大学教授ナボコフの著作「ロリータ」からとられている。いずれの著作も入試には出ないが、文学史上の傑作である。



エウリピデス(前485-前406)

三大悲劇詩人の最後の一人。「人間は万物の尺度」と説いたソフィス卜、プロタゴラスの影響を受け、アイスキュロスソフォクレスと同じく神話や伝説を基にしながら、人間の心理を重視した作風を確立。特に女性の心理描写 に優れる。代表作『メディア』は、ギリシア神話の金の羊毛探険隊で、隊長イアソンを助けて羊毛を手に入れさせ、その妻となる魔女メディアのコリン卜での悲劇に題材を得たもの。探険後メディアと共にコリントに赴いたイアソンはそこで国王クレオンの娘を新しく妻にしようとする。メディアは、魔法の衣装で花嫁と国王を殺し、さらに自分とイアソンの子を殺して去っていく。それまでは恐ろしい魔女の行為と考えられていた物語は、作者によって夫に見捨てられた妻の心理劇として同情を込めて描かれる。夫に捨てられた妻の悲哀と愛情回復へのむなしい努力。やがてそれが夫への憎しみに転じ、メディアはついに夫に苦痛をあたえる目的で、狂おしい心のうちにわが子を殺し、夫の新妻とその父を魔法の衣によって焼き殺すにいたるのである。一方でギリシア神話の英雄イアソンは金と権力に目がくらみ、恥を忘れた卑劣漢として描かれる。彼の作品は同時代ではそのあまりの革新性の故に評価されること少なく、喜劇詩人のアリストファネスの嘲笑を浴びたりしたが、後世その作品は3大悲劇詩人中最も愛好された。



アリストファネス(前450-前385)

ギリシアの代表的喜劇詩人ペロポネソス戦争期に活躍し、一貫して平和主義の立場に立つ。『女の平和』は、女たちが性的ストライキという奇想天外な方法で男たちに戦争をやめさせる話。もっとも基本的には保守的な人で、『蜂』ではペリクレスの改革でくじにあたって裁判官となり、日当も支給されて笑いの止まらぬ 老人を描いて、ペリクレスの直接民主政を皮肉り、『雲』では当時奇人として有名であったソクラテスをソフィス卜の代表として描いて笑いのめして、後のソクラテス処刑の原因を作った。またエウリピデスなどの悲劇詩人のパロディーも残している。他の代表作に『女の議会』がある。


ミュロン(前500-)

前5世紀に活躍の彫刻家。初めて躍動する人体の動きを捉えることに成功した彫刻家といわれ、代表作に『円盤を投げる男』がある。


ポリュクレイトス(前480-)

前5世紀に活躍した彫刻家。フィディアスと同期に活躍し、フィディアスのライヴァルであった。フィディアスが神像製作で名声を獲得したのに対し、オリンピア祭典の競技者の彫刻で知られる。代表作『槍をかつぐ人』はその一つである


フィディアス(前490-前430)

前5世紀に活躍のアテネの彫刻家。ペリクレスの友人でパルテノン神殿の再建を監督し、象牙と黄金で高さ12メートルの『アテナ女神像』を製作したと伝えられる。しかし彼の名声は反ペリクレス派の憎むところとなって女神像の黄金をごまかして着服したなどと訴えられ、結局アテネを去ることになり、晩年は不遇のうちに没した。



プラクシテレス(前390-)

前4世紀にアテネで活躍した彫刻家で、前5世紀のフィディアスと並び称される。女神を裸体で表現することを試み、自分の愛人である美妓フリュネをモデルに、入浴するヴィーナス像などのヴィーナス像を製作したことで有名。その中でもクニドスという港町の神殿に飾られたヴィーナス像は、大評判をよんで、遠来の地からも多くの人がクニドスを訪れたという。ただし、現存する唯一の作品(模作説もあるが)として残るのは男性神であるヘルメス(よりによって男根崇拝に由来する神じゃないかという話がある)「ヘルメス像」である。なんだかとっても残念。


タレース(前7C-前6C)

前6世紀のギリシア最初の哲学者イオニア植民市ミレトスの人。万物の根源を追究した自然哲学の祖で根源をとした。1年を365日に分け、1ヶ月を30日と定めたとも伝えられ、ギリシア7賢人の筆頭とされる。世界で最初に鋳造貨幣を制作したことで知られるリディア王の保護を受け、リディアとメディアの戦いに際して日食を予言したエピソードでも知られる。


アナクシマンドロス(前610-前547)

前6世紀ミレトスの人。タレースの弟子で万物の根源をトアペイロン(無限者)とする。


ピタゴラス(前582-前497)

前6世紀サモア出身でイタリアのクロトナに居住。万物の根源は数であると主張し、ピタゴラスの定理を発見した数学者としても有名。が、同時に彼は人間は全ての動物や植物がめぐりめぐって転生したものだと輸廻転生を説くピタゴラス教団の創始者でもあり、教えを詩と音楽で表現する芸術家でもあった。彼の輪廻転生思想はギリシアの伝統的信仰を根底から覆す物であり、教団は異端視されて迫害される。

この教義に反抗したクロトナの市民たちが、ある日彼の家を襲って火をつけた。ピタ
ゴラスは40人程の弟子とともに逃げ出したが、途中でソラマメの畑に行き当たった。
彼の植物に対する尊敬の念が、彼の運命を決した。「ここで死のう」と、ピタゴラス
は畑のへりに腰をおろした。「このあわれなソラマメを踏みにじるよりは」そして彼
は弟子たちとともに追ってきたクロトナの市民に虐殺された。どうもよくわからない

−山田風太郎『人間臨終図鑑』より引用。

『後宮物語』で第一回ファンタジー大賞を受賞した酒見賢一が、その生涯を『ピュタゴラスの旅』というなかなか面白い小説にしているので興味がある人は読んでみて下さい。もっともこの作品のラス卜の場面は講談社漫画賞を受賞した村上もとか(「赤いペガサス」!「六三四の剣」!「ヘヴィ」!「風を抜け」!「龍」!)の「岳人列伝」の中の「北壁」のパクリではないかな。


アナクシメネス(前585-前525)

前6世紀ミレトスの哲学者。同郷のタレース、アナクシマンドロスとともにミレトス派と言われる。タレースの水、アナクシマンドロスの無限者に対して、空気を万物の根源とする。


ヘラクレイトス(前544-)

前6世紀の自然哲学者。万物は流転すると説き、変化自体を万物の根源とし、をその象徴とする。エフェソスの名門に生まれながら、世俗的な生活を捨てて孤高の哲学生活を送った。彼のこのような態度は当時の人には随分奇妙に映ったようで、「暗い人」とあだなされてしまう。「泣く哲学者」というあだなもある。あんまりである。


アナクサゴラス(前500-前428)

小アジア出身でイオニア学派の系譜をひく哲学者。万物は理性<ヌース>によって整理され世界を形成すると説く。アテネに滞在してペリクレスの尊敬を受け、その友人となるが、太陽は燃える石に過ぎないと説いたことが反ペリクレス派につけこまれ、神(太陽神アポロン)を侮辱するものとして訴えられ、アテネより追放されてしまう。


デモクリトス(前460-前370)

原子を万物の根源と主張し、イオニア学派<自然哲学>の完成者とされる。活躍の開始はソクラテスとほぼ同期であるが、なにしろ90歳を越えて長生きしたので、活動期は前5世紀‐4世紀となる。エジプ卜を始め各地に旅行して見聞をひろめ、健全な生活を送り、ヘラクレイトスの「泣く哲学者」に対して「笑う哲学者」と言われた。


プロタゴラス(前485-前415)

前5世紀の哲学者で“人間は万物の尺度である”として普遍的真理の存在を否定。自らソフィス卜(知恵ある者の意で、アテネで直接民主政のもと民会が最高機関となり、民会での演説が政治を志す者にとって極めて重要になった世相を背景に、弁論や修辞を教えた職業的教師の総称。)と名乗った最初の人である。ギリシア中を莫大な授業料を取って青年達に講義してまわった。アテネにも数度訪れて、ペリクレスや三大悲劇詩人の一人エウリピデスと親交を結んだことが知られている。



ソクラテス(前469-前399)

普遍的真理の存在を主張し、ソフィス卜を批判したアテネの哲学者。知とは徳であるとする知徳合一を説いた。アテネの街角に出ては、ソフィス卜の授業で知恵を授かった気になっている青年たちに論争をいどみ、対話法(産婆術)と言われるその討論法で、無知の自覚を促す。一方で彼はデルフィの神託を重んじ、自己の内に響く神の声に耳を傾ける神秘の人であり、対話法で用いた『汝自身を知れ』という言葉はデルフィの神殿に刻まれていた言葉である。もっともギリシア人には珍しい団子鼻の怪偉な容貌のソクラテスが、街角で道行く青年達をつかまえ論争をいどむ様はアテネの市民に誤解されて奇人として有名となり、アリストファネスの喜劇『雲』では代表的ソフィス卜として噺笑と憎悪の対象とされた。そのような雰囲気の中で、ペロポネソス戦
争敗北後の衆愚政治下のアテネにあって伝統の神々の信仰をそこない若者を誤らす者として訴えられ、死刑の判決を受ける。逃亡のすすめに応ぜず、『悪法もまた法なり』として毒杯をあおぎ、死んだ。



プラトン(前427-前347)

前4世紀に活躍したソクラテスの最大の弟子。この世界の現実は完全不滅な真実イデアの影に過ぎないというイデア説を説く。哲人政治を理想とし、『国家論』を著述。その人材育成のためにアカデメイアに学園を創設。しかしシチリア島シラクサでの実践の試みには失敗した。ちなみにプラトニック=ラブという言葉はプラトン的恋愛という意昧で、これは彼のイデア説が肉体より霊魂を上位 に置くものと解釈されたことからきた言葉である。ヨーロッパ中世の騎士道で貴婦人に対する純潔な恋愛として流行し現在にいたるが、実際の彼は少年愛の人であったという説がある。
プラトンが学園を設立したアカデメイアは、もともとアテネの郊外に三つあった体育場(ギムナシオン)の一つの所在地(アリストテレスが学園を設立したリュケイオンもそうだ)。で、こうした体育場は、若い男たちが全裸で競技に打ち込み、若くない男たちがそれを見物し、男どうしのあいだの情熱的な愛情関係が生まれる場でもあり、それはしばしば肉体的に成就され、アテネの生活のなかで重要な役割を担っていた、と、僕のてもとにある『歴史の都の物語』(クリストファー・ヒッパード著。原書房。1992)に書いてあるんですけど。


アリストテレス(前384-前322)

プラトンの最大の弟子アレクサンドロスの家庭教師。イデア説を克服し、体系的哲学を構築。その関心は哲学にとどまらず、万学の祖といわれる。後世イブン=ルシュド(アヴェロエス)らのイスラム哲学に大きな影響を与え、それが12世紀にアラビア語からラテン語に翻訳されて西欧に伝わってスコラ哲学に影響を与える。アテネにリュケイオンの学園をひらくが、アレクサンドロス大王死後、マケドニアに反旗を翻したアテネから追放され、翌年死んだ。ところで、その死に関してはアテネを追放されてエウリポス海峡にいたり、海峡の潮流の不思議な動きが不可解で「エウリポスよ、わたしをのみこめ。わたしはおまえを理解することが出来ないから」といって身を投げて死んだという伝説がある。(この部分『人間臨終図鑑』参考)


ヒッポクラテス(前460-前375)

医学の父』といわれる小アジア出身のギリシアの医師。前5世紀ころ活躍。高潔な人格で医者の心得に関して多くの格言を残したことでも知られている。江戸時代の日本では、医学の神様として神棚に祭っていた蘭学者がいたという話もあるが、それはやりすぎというものであろう。


ヘロドトス(前485-前375)

歴史の父」と言われ、旅行家としても有名。「エジプ卜はナイルの賜物」は彼の言葉。ペルシア戦争の歴史を物語的叙述を用いて記録し『歴史』を著す。現代日本では神棚にまつっている歴史学者がいるという話は、ない。たぶんないと思う。


トゥキディデス(前460-前400)

自ら参加したペロポネソス戦争科学的叙述で記録し『歴史』を記述。ペリクレスを高く評価し、アテネ民主政を擁護したその演説の記録が含まれる。ヘロドトスの『歴史』が娯楽性の強いものであったのに対し、ギリシア語での本来の意味「探究」のことば通り、「歴史」の真実はいかにあったかを追い求めたところに特色がある。


ネアルコス(前360-前312)

青年時代からのアレクサンドロスの戦友の一人で、アレンサンドロスの部将。アレクサンドロスが部下の反対でインダス川上流で東進を断念した後、一隊を率いてインダス河ロよりペルシア湾を経由し、ユーフラテス川をさかのぼってバビロンに帰還。その手記『周航記』は当時のインド事情を知るために貴重な資料であり、紀元前後のローマ時代の地理学者ストラボンの『地理誌』にも再録されている。アレクサンドロス死後のディアドコイ<後継者>戦争では、アンティゴノス朝マケドニアの祖アンティゴノスを支持した。


ディオゲネス(前400-前325)

黒海南岸生まれのギリシアの哲学者でアテネで活躍。世俗の栄華を否定し、乞食同様の暮らしをしてつぼ(または樽)を住居にしたと伝えられる。歯に衣を着せぬ言動はプラトンをして「狂えるソクラテス」と言わしめた。アレクサンドロス大王が樽の中にいる彼のもとにやってきて望みを聞いた時、そこに立たれると陽が当たらなくて寒いから、どいてくれ、と語ったという逸話が残っている。その学説はストア派のゼノンに影響を与えた。


ゼノン(前335-前263)

エピクロス派と並んで、ヘレニズム期の2大哲学であるストア派の創始者。キプロス島出身のフェニキア人であるが、アテネで活躍した。幸福とは心の平静であるとし、その方法として禁欲を説き、禁欲主義の哲学者として知られる。ストア派はローマ時代に独特な発展をとげ、ネロ帝の家庭教師だったセネカ、奴隷出身の哲学者エピクテトス、哲人皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスなどを輩出。日本では高倉健(最近はパソコンのCMばかり目立っていたが,やっぱり寡黙で実直な男を演じさせれば日本一。広末涼子と組んで,『鉄道員』に主演し,日本アカデミー賞受賞。その時の挨拶がまた渋くて話題になった)の枕詞として知られている「ス卜イック」という言葉は、もともと[ストア派の(学徒)]という意昧。転じて、禁欲的で克己心が強く感情に動かされず、苦楽を超越する様子(した人)になる。


エピクロス(前342-前271)

ヘレニズム期、快楽主義の哲学として知られるエピクロス派の創始者。ストア派のゼノンとほぼ同時期にアテネで活躍。多くの支持者を集め、存命中から神のごとく崇拝され、実際にその誕生日には盛大な祝祭が行われたという。組織的な学校に初めて女子の参加を許した哲学者としても有名。<生の目的は快楽である>と主張したが、その快楽は<放蕩者の快楽>ではなく、苦痛や混乱を去った心の平静こそが最高の快楽であるとし、この点では実はストア派の主張と近い。しかし、後世その主張は単なる卑俗な悦楽追究と誤解され、本来「エピクロス派の学徒」を意味した「エピキュリアン」は快楽趣味、食道楽、美食家、快楽主義者などの意味で使われ,平成日本ではついにレストランガイドの雑誌のタイトルにされてしまった。



エウクレイデス(前300頃活躍)

平面幾何学を大成した数学者で英語読みのユークリッドの名で広く知られている。アレクサンドリアのムセイオン<王立研究所=ミユージアムの語源。本来の意味は、学芸の女神ミューズを祭る場所>で幾何学を講義。プトレマイオス朝の創始者プトレマイオス1世に対して語った「幾何学に王道なし」という言葉は、日本で受験勉強の格言として定着した。



アリスタルコス(前310-前230)

アレクサンドリアのムセイオンで活躍した自然科学者。地球は太陽の周囲を自転しつつ、公転するという地動説を提唱。しかし彼はその太陽中心説のために、世の人から無神論者として非難された。



アルキメデス(前287-前212)

シチリア島シラクサ出身の数学者。物理学者。てこの原理(私に足場を与えよ。地球をも動かそう)を発見。黄金の王冠の真贋の判定を依頼され、浮体の原理を発見。この時、公衆浴場に入浴して浮体の原理のヒン卜をつかみ、興奮し、生まれた姿のままで街にとびだした、というエピソードが伝えられている。ス卜ーリーキング(嘆かわしいことに今や死語である)の始祖でもあったと。ムセイオンで活躍後、シラクサに帰郷。シラクサが第二次ポエニ戦争でハンニバルと同盟してローマと戦い、ローマ軍に包囲攻撃された時、巨大投石器や敵艦焼き討ちを目的とする大反射鏡などを発明して、ローマ軍を悩ませたと伝えられる。シラクサ陥落後、彼を浮体の原理<アルキメデスの原理>の大学者と知らないローマのー兵士に殺害されてしまう。


エラトステネス(前275-前194)

ヘレニズム時代にアレクサンドリアで活躍したギリシア人数学者、天文学者、地理学者。ムセイオンの館長をつとめた。地球の赤道の周囲<地球の長さ=子午線>を影の角度から計算し、45000km(突際は40000km)という近似値を得たことで有名。


ヘロフィロス(前3世紀頃活躍)

小アジアのカルケドン出身の解剖学者。ミイラ製作のための解剖の伝統が残るエジプ卜で、医学のための解剖を行ない、動脈と静脈の区別を発見。アレクサンドリアに医学校を開いた。


ヴェルギリウス(前70-前19)

ラテン文学黄金時代のローマ最大の詩人。アウグストゥス帝による平和回復の喜びと愛国の情熱を、ローマ建国の叙事詩にしてラテン詩の最高傑作といわれる『アエネイス』に歌った。この叙事詩はローマの建国者をトロヤの英雄アエネイスとし、ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』を下敷きにしたものであるが、ホメロスに遠く及ばず、ついに未完のままで死に臨み、焼却せよと遺言したのを、アウグストゥス帝の命によってその死後公開されたものである。温厚で内気な性格からパルテニアス(処女のような人)とあだなされ、生涯を独身で過ごす。もっとも独身だったのは、プラトンと同じく少年愛の人であったからで、自分の愛する美少年によせる詩も残っている。しかも痔で悩んでいたとも伝えられるから、悪く想像するとちょっと怖いも
のがある。ホモは死刑のはずの中世ヨーロッパでなぜかキリス卜教の聖人に祭り上げられ、ルネサンスの先駆けを告げるダンテの『神曲』では、ダンテに地獄界・浄罪界を案内する導師として描かれた。



ホラティウス(前65-前8)

ラテン文学黄金時代叙情詩人で、ヴェルギリウス・オヴィディウスとともに三大詩人と称される。若き日には共和政擁護の情熱と正義感の赴くままに、ブルートゥスの自由軍に参加して一隊の長となり、アントニウスやオクタヴィアヌスの軍隊と戦うものの敗北。天下のお尋ね者としてローマの裏町に潜伏の日々を送る。この経験が、彼にエピクロス哲学の徒としての人生への深い認識と、詩人としての鋭い観察眼をもたらすことになる。後に詩人として名をなした時、かつて彼が敵としたアウグス卜ウス帝の愛顧を受けてローマ近郊に荘園を与えられ、そこで現在でも広くヨーロッパ世界で愛唱される『叙情詩集』などの傑作を残した。


オヴィディウス(前43-後17)

ヴェルギリウス・ホラティウスとともに、ラテン文学黄金時代を代表する三大詩人の一人。しかし、温厚で「神のごとき詩人」と嘔われたヴェルギリウスや、哲学者の風貌を持つホラティウスと異なり、彼はどうすれば異性の心を捉え、恋愛に勝利できるか教えるとうそぶく『恋のてくだ』のような詩で、人気詩人の地位を獲得する。「愛されるには、まず愛想よくあれ」をモッ卜ーとし、「天が星をもつ数だけそれだけ、多くの少女を汝のローマはもっている」とうたい、「じつに今は黄金の時代である。最高の名誉は黄金で得られ、恋愛も黄金でむすばれる」とローマ社交界の花形としてわが世の春を謳歌するも、風紀の乱れを憂えるアウグストゥス帝からその元凶としてにらまれ、突如黒海沿岸の辺境の地へ流刑される。もっとも流刑の原因については、皇帝一族のとんでもない不祥事をたまたま目撃してしまったためではないか、とも言われる。風紀の乱れと言えば、何といっても皇帝の娘ユリアの浮気癖に勝るものはないから、これは大いに有り得る話である。流刑地で身の不運を嘆く詩をつくり、ひたすら皇帝のゆるしを願ったが聞き入れられず、10年間の悲惨な流刑生活の後没した。代表作は、ギリシア・ローマ神話から変身物語を集成した『転身譜<メタモルフォセス・変身物語>』で、神話伝説の宝庫としてシェークスピア以下後世の小説家におおいに利用されている。今は亡き偉大なマンガ家手塚治虫にも同名の作品がある。


ルクレティウス(前99-前55)

共和政末期の詩人でエピクロス派の哲学者。その生涯については、確かなことは何もわかっていない。現存する著作は『物体の本性』。エピクロス派ではデモクリトスの原子論を継いで、世界の全ては原子の働きによるとしたが、この書はその立場から自然や神々についての人々の迷信に戦いを挑んだものであり、近代の唯物論者に大きな影響を与えた。


キケロ(前106-前43)

ギリシア思想やヘレニズム哲学をローマに紹介した学者で、雄弁家としても有名であると同時に、コンスルを経験し、ローマ転覆の陰謀を未然に防いで「祖国の父」と賞賛され、カエサルから第一回三頭政治への参加を呼びかけられたほどの大政治家でもあった。カエサルとポンペイウスの対立ではポンペイウスを支持してカエサルの政敵となり、カエサルの暗殺後は、アントニウスと対立してその支持者の手により惨殺された。代表作『国家論』は、おびただしい書簡や演説集とともにラテン語散文を確立したものとして高く評価されている。



小プリニウス(後62-113)

大プリニウスの甥で、ラテン文学の赤銅時代と言われる帝政初期に、書簡文学で活躍。政治家としてはトラヤヌス帝の信任を受けた。トラヤヌス帝や友人に、あらかじめ公表することを前提とした手紙を送り、それを文学作品として発表。なかには大プリニウスのヴェスヴィオス火山噴火にさいしての遭難や、キリス卜教徒に対して述べたものがあり、当時の社会を知るための重要な記録となっている。


セネカ(前4-後65)

ストア派の哲学者でネロ帝の家庭教師。代表作は『幸福論』。ネロ帝が即位 すると大臣となってよくその政治を後見したが、ネロがその残虐で強欲な性格を現してくると政界から引退。著述に専念する。人生の短さと禁欲を説き、富を軽んじながら、実生活においては南海貿易に投資して巨万の富を蓄積するなど矛盾した態度を示す。しかしネロ帝に対する陰謀の疑惑に巻き込まれ、死を命じられたときには入浴して血管を太くし毒を注射して、自分の命の消えゆくさまを書記に記録させ、ストア派の哲学者らしく従容として死に赴いた。


エピクテトス(55-135)

ギリシア人で、ストア派の哲学者。はじめ奴隷であったが、この時期にストア派の哲学を学んだとされる。解放されて自由人となると、庶民の教育に情熟を傾け、名声があがって有力者が周囲に集まるようになってもわら布団に寝るなどの庶民的態度を崩さなかった。孤児の救済などの事業を行ったことも知られている。自らは何も著作を残さなかったが、弟子が彼の言葉を記録して『語録』として出版し、人生の指南書として、当時のベストセラーとなった。



ポリビオス(前201-前120)

ローマ共和政時代のギリシア人の政治家・歴史家。前2世紀にギリシアの覇権を握ったアカイア同盟の指導者の一人で、前168年アンティゴノス朝マケドニアがローマに滅ぼされた第三次マケドニア戦争において、アカイア同盟もマケドニアととともにローマと戦い、敗北したため、人質としてローマに渡った。スキピオ一家と知り合ってその厚遇を受け、小スキピオの家庭教師となった。第三次ポエニ戦争で小スキピオに伴われてアフリカ北岸にわたり、カルタゴの滅亡を見聞。その経験からローマの勝因を追及して書かれたのが『ローマ史』である。ここで彼は政体は君主政→その堕落形態としての僭主政→貴族政→その堕落形態としての寡頭政→民主政→その堕落形態としての衆愚政→そして一巡して君主政と循環し続けるという、政体循環論を唱えている。彼によれば、ローマは例外的に君主政(コンスル)、貴族政(元老院)、民主政(平民会)の要素を併せ持った混合政体であり、安定していた。故に地中海に覇権を確立することが出来たというのである。もっとも彼はローマといえども、いつかは政体の変遷を免れ得ないと論じており、事実、革命の1世紀の混乱はその時既に始まっていた。



リヴィウス(前59-後17)

アウグストゥス帝の側近の歴史学者。アウグストゥス帝により革命の1世紀の混乱に終止符がうたれたローマでは、新時代の到来を喜び、ホラティウスがアウグストゥス帝が演出した「世紀の祭典」のために詩を作ったのを始め、ヴェルギリウスがローマ建国の叙事詩である『アエネイス』を創作するなど愛国心の高揚が見られた。その雰囲気の中で、建国からアウグストゥスにいたるローマの歴史を『ローマ建国史』142巻(現存は35巻)に著した。その名文は、「牛乳のような豊かさ」と称えられ、ローマ共和政の第一級史料として、「ローマ史研究の聖書」と位 置付けられている。



タキトゥス(55-120)

護民官・統領・属州アジア(現小アジア)の総督をつとめた有力な政治家であるとともに、『ゲルマニア』『年代記』を著した歴史家であり、繁栄の中で退廃に向かうローマを憂える優れた文明批評家でもあった。その著作『ゲルマニア』はカエサルの『ガリア戦記』と並んで古ゲルマンの研究史料として高く評価されているが、執筆の動機はゲルマン人の質朴さを強調することで、日夜続く宴会で美食を楽しみ、満腹になるとガチョウの羽をつかって食したものを吐き出してまで食べ続けるようなローマ人の歪んだ賛択を批判することにあった。また『年代記』は、副題に「神聖なるアウグストゥス帝の死より」とあるように、アウグス卜ゥス帝の死後からネロの死の直前までの時代(14-66)を扱ったものである。この時代はカリギュラやネロのような暴帝が輩出した時代で、帝室の陰謀を記述する彼の筆からは、暴君たちへの憎悪と共和政時代への思慕、そしてにもかかわらず帝政を仕方のないものと受け入れる諦観がうかがえる。



プルタルコス(46-120)

五賢帝時代のギリシア人伝記作家・歴史学者。ハドリアヌス帝の愛顧を受けてギリシアの代官をつとめ、後には神託で有名なデルフォイの神官となった。その著作『対比列伝』はアレクサンダーとカエサルというように、ギリシアとローマの英雄を対比させて描きだしたものである。後世風雲児ナポレオンが愛読してエジプト遠征の一原動力となった。



ストラボン (前64-後21)

小アジア出身のギリシア人地理学者。その著作『地理誌』はローマ帝国の地域別 に地理や風俗、史実、そして神話や伝説までものべたものである。特にギリシアと小アジアに詳しく、古代史研究の重要史料となっている。わが国の「風土記」のようなものと考えれば、わかりやすい。



大プリニウス(23-79)

ローマ帝政初期の政治家・軍人・博物学者。その著作『博物誌』は、一種の大百科辞典であるが、象や犀といった実在の動物から、火を吐くとかげサラマンダーや、羊のなる樹のような荒唐無稽なものまで扱っていて、理屈抜きに面白い。異端の作家澁澤龍彦がそのエッセイでよく取り上げていて文庫本にもなっているので、是非読んでみてほしい。ヴェスヴィオス火山噴火(ポンペイが一瞬にして火山灰に沈んだことで有名)の時、艦隊司令官として救出作業に向かい(持ちまえの好奇心からという説あり)有毒ガスで死亡。



プトレマイオス(2世紀活躍)

ギリシアで活躍した地理学者・天文学者。経度と緯度を使用した世界地図を作成。また、それまでのギリシア・オリエントの天文学の知識をまとめ、「天文学集大成」を著す。この書は西ローマ帝国崩壊後の西欧世界では失われていたが、イスラム世界ではアラビア語に翻訳されて『アルマゲス卜』と題され、後にそれが西欧に翻訳されて中世天文学の権威とされた。しかし、この書で彼が採用したのが、アリスタルコスの地動説ではなく天動説であったため、天動説がカトリック教会の公認教理となり、ルネサンス期に多くの悲劇を招くことになる。


ガレノス(129ころ−199ころ)

小アジアのペルガモン出身のギリシア人医師。ローマに出て名医の評判をとり,後に五賢帝最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝に仕える。動物解剖を行って人体の構造を考察し,後の医学に大きな影響を与えた。しかし,人体解剖を行わなかったため,その考察には限界があり,また,血液の生成などには誤った説をたて,17世紀にハーヴェーの血液循環説によって訂正されることになる。