康有為(1858-1927)
清末民国初期の公羊学者・政治家。広東省の名門に生まれ、列強に侵食される中国社会の現状に愛国心を燃やし、広く史学・仏教学・公羊学を学ぶ一方で西欧の新思潮も吸収。その結果たどりついたのが、孔子を古代に理想を置く復古主義者ではなく、来るべき新しい王朝のために制度を改めた革命思想家であり、古代に仮託して乱世から小康を経、昇平・太平を経て究極の大同に進む歴史の進化を説いた人物であるとみなす、儒学のコペルニクス的展開であった。主著『大同書』は、国家、階級、人種、家族などいっさいの束縛から解放された理想社会大同を構想したものであり、当時の知識層の幅広い共感を集めた。彼は私塾を開いて後進を指導する一方で、政権を握っていた洋務派の政策を批判し、日本の明治維新にならった徹底的な改革を説いて変法自強運動を指導。1888年早くも一民間人としては異例の光緒帝への上書を行い1895年に科挙合格後も上書を繰り返し、1898年日清戦争敗北後の世相の変化もあって、ついに光緒帝に抜てき。戊戌の変法と言われる革新政治にとりかかるも百日維新という別名で知られるように、西太后と結んだ保守派の巻き返しにあってわずか百日ほどで失敗。日本に亡命した。その後は、孫文の中国革命同盟会に対して、光緒帝の擁立をとなえる保皇会を指導するなど、激動の時流から取り残され、保守派の代表的人物とみなされておわってしまった。