第1話 あいさつ代わりに『エレクトラ』(2)
 
 最初にCDを聴いたとき、いつもの通りヘッドフォンをかけて大音量で聴いていたのだが、とにかく最後の全曲の終わり方に衝撃を受けた。文字通り「衝撃」だった。みぞおちを殴られたように一瞬息が止まって体が前につんのめった(昔、本当に殴られたときはこの程度ではすまなかったが)。凄い。こんなに劇的な、人をつき刺すような終わり方は、他の曲では絶対にない(近いところで、ベルクの『3つの管弦楽曲』が思い浮かぶが、あれは、もっと破滅的・絶望的なものを連想させて、あまり比喩を書きたくない感じだな)。この曲の初演を聴いたある批評家による、「あまりの不協和音に耐えかねて、家へ帰ってからハ長調のコードを18回連打した(らスッとした?)」という有名な批評があるが、筆者は密かに、この批評家は最後の終わり方が無茶苦茶気に入ってしまい、それを隠すためにそんなことを書いたのだろう、と思っている。なぜなら筆者もまったく同じことしたからだ。ピアノでCのコードを5回、力の限り連打した後でドスッ(es→C)とやるのだ。これをやるときの妖しい快感はとても言葉では表現できない。
 
 それまでの不協和音の山があるからこそ、最後の場面のエレクトラの歓喜の踊りや、幕切れのハ長調も輝かしく引き立つと言えなくもない。あざといといえばあざといが、計算というよりは吉田秀和氏が書いておられるとおり「天才の無遠慮」というものなのだろう。ところで、いつも思うがエレクトラの歓喜の踊りは『ブリュンヒルデの自己犠牲』そのものではないか(誰かがこれを指摘しているのを読んだことがないが、そんなことは常識か?)。シュトラウスが無意識に書いたとは思えない。まさかパロディーではないだろうから、ワーグナーへのオーデなのだろう。
 
 実は、シュトラウスがこの曲でもう一人オーデを捧げている作曲家がいる。モーツァルトである。オレストにつけられた音楽から何かを連想されないだろうか。そう、『ドン・ジョヴァンニ』の騎士長である(これも自分が初めて見つけたかのように偉そうに書いているが、常識か?)。偶然ではない。シュトラウスは意識して書いたのだ(じゃあ、エレクトラはドン・ジョヴァンニか!?うん、エレクトラをドン・ジョヴァンニの変形と捉えることは可能だと思う。男と女、恋人と親、性への執着と死への憧れ。結構、対比が成り立つ)。「なんだ、シュトラウスがヴァーグナーとモーツァルトから影響を受けているのは常識じゃないか。つまらん」と皆さんがっかりされておられる様子は書いていても見える。まあ、そうおっしゃらず。どういう風に影響を受けたかを意識的に聞き直しみるのは無駄ではないでしょ?
 
 ここで疑問が湧き起こる。もし、シュトラウスがオレストを騎士長にダブらせたのであれば、舞台に登場するオレストは果たして生きた人間なのだろうか。なぜなら、オレストの音楽にダブるのは、騎士長は騎士長でも、死んで石像としてドン・ジョヴァンニの前に現れる騎士長の音楽なのだ。そして、オレストを「死人=幽霊」だと考えると辻褄があうことがいくつかある。まずなにより、音楽自体がとても血の通った生きた人間のための音楽とは思えない!!もしオレストが生きた人間だとすれば、相当な奇人だろう。すくなくともシュトラウスは異常人格者と捉えていたはずだ(聖人か?シュトラウスにとっては聖人=異常人格者かもしれん?)。オレスト以外の登場人物につけられた血生臭い音楽との落差が大きすぎるし、姉との久しぶり再会に感激しているはずなのにどうしても音楽がからみ合わないように思えるからだ。ついでに何でもかんでも結論にひきつけてしまうなら、「犬でも主人を認めて云々」のオレストの台詞も、人間に見えない幽霊も犬畜生には分かるということ(そんなことがあるのかどうか知らんが)を象徴しているといえなくもない。
 
 そしてさらに大きなポイントは、劇の構成で筆者が最初から疑問だったことなのだが、なぜオレストは復讐を遂げた後、二度と姿を現さないのか。この部分は専門家にとって「常識」なのか、はたまた「恥ずかしくて今さら聞けないこと」なのかよくわからないが、筆者は今までこの点を正面からまともに説明した解説に出会えていない。ビデオを見比べても演出もいろいろあるようだし(何を血迷ったか、最後にふらふら出てくるヴィーンの演出・・・シェンク?・・・は最悪と思う)。さっぱり分かりません。でも、これが幽霊だったら納得がいく。えっ!?なぜ幽霊なら二度と姿を表さないでいいのか、ですって?う〜ん、・・・・・・ドラマトゥルギーからいってもここは・・・・・・なあんてごまかすと怒られるか。筆者の現時点での結論は、「オレストは、実は、旅先でエギストが放った刺客に殺された(つまりエギストたちを油断させるために流したとされるオレストの「デマ」が実はデマではなかった!)が、死んでも死にきれず、幽霊として現れ、復讐を遂げた瞬間に成仏した(ん?仏教徒?)」というところだが、無理があるだろうか?そもそも、ギリシャ悲劇がベースの劇を現代的な感覚で解釈しようとすることに限界があるのかもしれない。ホフマンスタールもヨーロッパの知識人として、ギリシャ悲劇の伝統をしっかり踏まえているに違いない。そういった辺りは、ギリシャ悲劇に素養のある方ならそれほど難しいことではないのかもしれないのだろう。そういう方には、この劇の解釈についてぜひご指導を頂きたい。
 
 余談だが、この考えを押し進めて、オペラ全体を「エレクトラの夢(意識)のなかの出来事」として捉える演出も可能に思えてくる。昔、バイロイトでクプファーが『オランダ人』をゼンダの夢の中の出来事として演出して賛否両論を巻き起こした、あれと同じ。演出本意に考えれば、無理な部分はほとんどないと思う。しかし、そういう風に演出しなければならないか、と考えると、あまり必然性は感じられない。むしろギリシャ悲劇を歪曲するものとして様式上の問題を生じさせるだろう。
 
 さて、今回は演奏会形式での上演だったので演出はなかった・・・・・・いや、少しだけあったが、これは結構、効果的だった(だが、舞台裏からPAで流した合唱の処理はとっても不満)。演奏会形式というのは、どんなオペラでも面白いが、このオペラには特にぴったり。交響詩も凌駕するような目眩くシュトラウスサウンドを思う存分楽しめる。そもそもピットではオケが馬鹿でかくて指定通りには入りきらない。オペラハウスを熟知したシュトラウスであれば、当然、ピットでの響きを想定しながら書いたはずなのだが。筆者は、以前は、シュトラウスが活躍したミュンヘンやウィーンなら入るのかもしれん、と思っていたのだが、向こうでオペラをやっている人に聞いたところ、やはりシュトラウスの指定通りには入らないらしい。じゃあなぜ、そんな編成で書いたのか。書きたかったんでしょうね。とにかく、シュトラウスも絶対、生で聴くべき作曲家の一人。
 
 歌手もなかなか水準が高くてよかったですが、ここでは詳しくは触れません。N響もいい演奏でした。特に、二日目は初日よりぐっとよくなっていて、自分たちのものとして自在に表現しているあたり凄かったです。
 
 同時に、デュトアがいなくなる寂しさも格別でした。「立ちション」も「ブラボー」もシャイな筆者がデュトアに感謝の気持ちを表したい一心でしたことですから(花束、横断幕も考えたが、ホモと間違われるので止めた)。デュトア&N響については思うところがたくさんあるのでまたの機会に書かせてもらいます、とにかくデュトアに感謝。

 メルシー!シャルル。(この項終わり)

 <2003.12.22>