18世紀前半,産業革命前夜のイギリスで,二つの架空旅行記が出版された。 

 非国教徒のジャーナリストであったデフォーの『ロビンソン・クルーソー』 と,アイルランドの首都ダブリンの国教会主席司祭であったスウィフトの『ガリヴァー旅行記』である。この二作品からは,イギリス産業革命と資本主義形成の要因を読み取ることができる。

  『ロビンソン・クルーソー』は,産業革命期のイギリスにおける「市民階級の聖書」であった。『ロビンソン・クルーソー』において,無人島に漂着したロビンソン=クルーソーが信仰に目覚め,創意工夫を重ねて生活を改善していく生き方は,「自助努力」をモットーとするイギリス中流階級の価値観を代弁していた。「経済学はロビンソン物語を愛好する」と『資本論』で述べたのはカール・マルクスであるが,近代経済学はロビンソン・クルーソーに,利潤を最大にするため合理的に行動する「経済人」の典型を見出し,ドイツの社会学者マックス・ヴェーヴァーも,プロテスタンティズムの倫理に基づいて行動するロビンソン・クルーソーに資本主義的人間の典型を見た。イギリス中流階級のこのような行動原理を,イギリスの資本主義発達の背景の一つに数えても良いだろう。

 それに対してスウィフトの『ガリヴァー旅行記』は,当時のイギリスの政治・社会に対する仮借無き批判の書であり,ついには西欧文明と人間存在そのものへの否定と向かう。スウィフトは,天空の島ラピュータが登場することで有名な『ガリヴァー旅行記』第三編において,「あらゆる技能,学問,言語,技術を根底からやり直し,新しい基盤によって作り上げる」新生活運動が国王の詔勅を得た企画研究所によって主導され,国民全体が技術革新に熱中する架空の国の狂態を,嘲笑を込めて描き出す。

これらの研究機関では,教授たちは農業や建築術の新しい法則と方法だとか, あらゆる商業や工業に必要な新しい機械や道具だとか,の開発に夢中になった。もしこれらが開発されたら,一人で十人分の仕事ができる。宮殿だって一週間でできる,修理を加えなくても永久に保つ耐久力の強い材料を使えば,そんなことは朝飯前だ。地上のあらゆる果樹もわれわれが適当と思う季節に実をならせ,しかも現在の百倍も生産高を上げることができる。ざっとこういうのが彼らの言い分であった。(岩波文庫版p.245)

 そこでは,旧態依然たる生活を続けようとする貴族は,「技術革新の敵として,祖国の全般的向上よりも自分の安逸と怠惰を優先させる無知で唾棄すべき国民として,みんなから軽蔑と憎悪の目をもって眺められて」いる。スウィフトは風刺したが,当時イギリスに存在したこのような技術革新への熱狂こそが,産業革命期の様々な発明を生みだす原動力となったことは否定できない。

 さらに,この2作品が執筆され,人気を博した背景には,重商主義政策を推進していた当時のイギリスで,航海事業や海外事情に関する関心が高まっていたことがあげられる。実際,ロビンソン・クルーソーは,プランテーションを経営し,労働力たる黒人奴隷を獲得しようとして船出して難破した人物として設定されている。一方,『ガリヴァー旅行記』に込められたイギリス社会批判の背景には,アイルランドの産業を制限し,独自の貿易を行う権限を制限し,アイルランドをイギリス製品の市場として搾取するイングランド政府の重商主義政策に対するスイフトの憤りがあったとされる。

 両書の方向は,ここでも真逆であるが,肯定的に捉えるにせよ,否定的に捉えるにせよ,重商主義政策に基づく植民地帝国の建設こそが,イギリス資本主義の発展と産業革命に決定的な基盤を提供するのである。植民地への輸出を背景に各種産業が成長し,産業革命の担い手たる中流階級の台頭を準備した。フランスとの植民地戦争に際し,大量の国債が発行されたことは,ロンドンの金融業者と支配階層である地主貴族層(ジェントルマン)の提携・融合を促した。さらに植民地との貿易の拡大は,ジェントルマン資本家と言われる上流階級の巨大な資産が,海上保険や長期信用の提供などの国際金融によって運営され,増大することを意味した。

 事情は,重商主義から自由貿易主義に転換した19世紀についても同様である。イギリスは,インドなど「公式の帝国」への支配を強化しつつ,中南米や,中東,東アジアなどの低開発地域に,不平等条約に基づく自由貿易を強制してイギリス工業製品の市場及び一次産品の供給地としてイギリスを中心とする国際分業体制に組み込み,「非公式の帝国」として従属下に置いた。例えばエジプトでは実質経費140万ポンドのアレクサンドリア港の港湾工事をイギリス企業が250万ポンドで受注し,しかもその経費の多くはイギリスの銀行が購入した高金利の外債でまかなわれた。(竹内幸雄『イギリス人の帝国』,ミネルヴァ書房,2000)。中流階級が担う「世界の工場」としてのイギリス,上流階級の資産を背景とする「世界の銀行」としてのイギリスの繁栄は,ともにこのような「帝国」の存在によって担保されていたのである。もちろんそれは,イギリスによって踏みにじられたスウィフトの故郷アイルランドと同様の貧困を,世界に拡大していくことでもあったのだが。

 しかし,イギリス資本主義のこのような特徴は,後発の資本主義諸国の追いあげに際しては弱点ともなった。軽工業から重化学工業へと産業構造の転換を促した19世紀後半からの第二次産業革命は,自然科学の成果の技術分野への応用を特徴とした。ドイツなどの後発国では産業育成のための投資銀行や,技術者育成のための工科大学と企業内研究所の設立が進むとともに,株式会社形式の独占企業が成長して,工場施設や研究開発に必要な巨額の資金の調達を可能とした。それに対してイギリスの企業は同族経営の小企業が多く,投資銀行や証券市場からの資金調達に消極的であり,イギリスの金融資本もまた,国内産業への投資よりも,海外投資を重視しがちであった。イギリスの工場経営者は現場の熟練工による創意工夫を重視するあまり,専門的な科学技術研究の成果を軽んじる傾向があった。従って第二次産業革命を特徴づける電機,化学,自動車などの新興分野にイギリスは乗り遅れてしまった。一方で伝統的なイギリス綿工業は,インドや中国などのアジアの輸出市場で,安価な労働力を武器に台頭した現地の民族資本と,19世紀末から軽工業中心に工業化を進めた日本の綿工業の挑戦を受けた。かくして世界の工場としての地位を脅かされた1870年代以降のイギリスは,世界の銀行としての権益の維持と拡大をはかって帝国主義の時代に突入していくことになる。