ゴヤ(1746-1828)
スペインの画家。自ら「わが師は自然とベラスケス及びレンブラン卜」と語ったようにフランス画壇の流行とは一定の距離を保った。スペインの宮廷画家となり、1800年作の「着衣のマヤ」と「裸体のマヤ」のようなあぶな絵的な絵も描いて異端審問所に付け狙われたりしたが、1792年に聴力を失って以降は内省的な傾向を強めていたと言われる。その彼の絵に決定的な転機をもたらしたのは、ナポレオン軍の侵入とそれに抗する民衆の反乱、いわゆる半島戦争であった。彼はナポレオンの兄ジョセフが国王となってもなお宮廷画家の地位を保っていたが、その地位を失う危険と、聴覚を失った身の不自由をおして、スケッチブックを手に戦場に出て、その悲惨さを嘔吐を繰り返しながらも克明に描き留めていった。その成果はフランス軍による反乱民衆の処刑を描いた大作「1808年5月3日」や、死後刊行された版画集「戦争の惨禍」に結実した。晩年には悲観的傾向を強め、“聾者の家”と名づけた自宅の壁に、「わが子を食らうサトゥルヌス」のような不気味な“黒い絵”の連作を残した。
ダヴィド(1748-1825)
18世紀末から19世紀初めにかけてフランスの宮廷中心に発展した古典主義絵画の代表者。フランス革命にも参加。有名な「テニスコー卜の誓い」や,ジャコバン派の指導者マラーの暗殺を描いた「マラー」,処刑直前のマリーアントワネッ卜のスケッチなど、フランス革命関係の資料によく出てくる絵は彼の手によるものである。国民公会議員としてルイ16世の処刑にも賛成票を投じ、テルミドールの反動でロベスピエールが倒れたときには連座して投獄されている。ナポレオンが政権を握ると、その首席宮廷画家となり、フランス画壇に君臨。「ナポレオンの成聖式と皇后の戴冠」などを描いた。
アングル(1780-1867)
ダヴィドのアトリエに学び、古典主義絵画の代表者、伝統の守護者として18歳年下のロマン派のドラクロワの好敵手とみなされた。ドラクロワが彼の絵を「不完全な知性の完壁な表現」と評すると、彼の方は展示会場にやってきたドラクロワに対して「糞の臭いがする」とやり返したというエピソードが伝わっている。理想的な美を表現するためには、あえて不自然な形に人体を歪曲して表現することもし、批判者からは「甲状線障害の人物画」と批判された。代表作「グランド・オダリスク」にいたっては女性の背中の曲線の美しさを強調して異様に長く背中を描いたため「余計な椎骨が3本もある」と評されている。また、エロテイックな…というより、「すけべな」と言った方がわかりやすい絵が多いことも特徴でなかでもきわめつけの「トルコ風呂」はなんと80歳過ぎの作品である。
ジェリコー(1791-1824)
縦横4.91m×7.16mの巨大な絵画「メデュース号の筏」で、フランスロマン主義絵画の出発を告げた画家。この絵は1816年におこったフランス海軍の軍船メデュース号の遭難事件に題材をとり、筏で漂流し、死んだ仲間の肉を食べて餓えをしのいでいた遭難者たちが、今まさに救出されようとしている決定的瞬間を描き出したものである。古典などに題材をとった新古典主義が支配していたフランス画壇に、この絵は激しい衝撃と賛否両論の嵐を巻き起こした。が、画家自身は33歳で落馬事故で早世し、良くも悪くもこの作品のみで記憶されることになった。
ドラクロワ(1798-1863)
ジェリコーの後輩にあたり、「メデュース号の筏」製作にあたっては、自らモデルの一人として協力している。ジェリコー亡きあとは、文字通りロマン主義絵画を代表する画家として活躍。革命政府、ナポレオン政府の高官を父として生まれた(タレイランが実の父であるとの説もあり)彼は革命への情熱を秘めて時事的話題も取り上げ、トルコの圧政(実は西欧人の空想の産物で、オスマントルコ帝国は歴史上もっとも異教徒と異民族に寛大な帝国であるのだが)に苦しむギリシアの人々を描いてギリシア独立戦争への支援を訴えた「キオス島の虐殺」や1830年の七月革命に取材した「民衆を導く自由の女神」の作品を残している。文学者ユゴーや音楽家ショパンなどのロマン主義者とも親しく交流したが、フランス画壇においては異端の画家扱いされ、8度目の立候補でやっと美術アカデミーの会員となったのは、1856年のことである。
コロー(1796-1875)
19世紀半ば以降に現れた、ありのままの自然を描こうとした自然主義絵画を代表する人物。両親により画業に専念する許可を与えられたのは、1822年26歳の時で、かなり遅い出発である。1846年にはレジオン・ドヌール勲章を受け、48年には画家仲間の投票によって栄誉あるサロンの審査員になっているが、それは彼の絵の実力ではなく、親切で世話好きな性格による部分が大きい。世間からは凡庸な画家と思われ、その絵が全く売れず、経済的に彼を支え続けた両親からすら才能を期待されていなかった彼が、突如評価され流行画家となったのは、1851年より描き始めた風景画によってである。銀灰色のベールがかかった朝もやや夕暮れという叙情的な、あるいは感傷的な風景画は爆発的な売れ行きを示し、もう60歳近くになっていた彼は、初めて自分の絵で生活費を得ることが可能になった。しかし彼が押し寄せる注文に応えて類型的な風景画を大量に描いたこと。彼の生存中の1865年ころから既に大量の贋作が出回り始めたことは、「2000点の油彩画を描き、そのうち5000点はアメリカにある」という有名な言葉に示されるように、現在でも世界中で、彼が描いたと推定される数倍の絵が、彼の絵として展示されているという事態を招いている。その一方で、注文によらず、レオナルド=ダ=ヴィンチの「モナリザ」へのオマージュとして晩年に描いた「真珠の女」等の人物画は現在美術史上に残る傑作として高く評価されている。
ミレー (1814-1875)
「落穂拾い」「晩鐘」などで有名で、特に日本での人気は圧倒的なものがある。画家になってから死ぬまでフランスの寒村バルビゾンに住み、農民の労働風景を描いて自然主義風景画に新たな局面を開く。またバルビゾンに住んだ彼らの活動から、フランスの自然主義風景画家を、バルピゾン派と呼ぶようにもなった。40代半ば過ぎまでその絵は認められず、妻と9人の子を抱えてひどい貧乏に苦しめられ、一時は自殺を覚悟するほどであったが,以後ようやく生活も安定した。日本では農民の画家 、労働者の画家として崇高なイメージに祭り上げられたこともあったが、彼自身は農民とは一定の距離を置き、また人間的弱点も多分にあったことが知られるようになった。もちろん 、そのような生身の人間の苦悩こそが、作品の魅力を生むのである。
ドーミエ(1808-1879)
19世紀半ば以降フランスにおこった社会の現実を客観的に描写しようとする写実主義運動の、絵画面での代表の一人。1830年代に国王ルイ=フィリップを揶揄する政治漫画を多く発表したが、そのために6か月の禁固刑を受けている。しかし政治漫画家としては有名であったが、その油彩の絵は当時はほとんど売れず、晩年は盲目状態となり、コローの提供してくれた小さな家で死ぬ 。
クールベ(1819-1877)
フランス写実主義を確立した画家。「石割り」は名も無い石割り人夫の仕事の様を描いて、伝説や歴史上の人物を描くだけであった従来の絵画に対し、絵画の主題としては、歴史上の人物であろうと一般の労働者であろうと平等であることを主張した作品。もちろんその背景には、フランス産業革命の進展による、ブルジョワとプロレタリアー卜の地位向上とそれによる共和主義、社会主義の盛り上がりがある。彼自身共和派でしかも「無政府主義の父」プルードンの友人であり、パリコミューンにも参加して、その崩壊後は6か月の禁固処分を受けてもいる。
マネ(1832-1883)
1863年の「草上の昼食」65年の「オランピア」で、その絵の風俗上のスキャンダラスな内容と,日本の浮世絵の影響を受け,ヨーロッパ絵画の伝統であった「遠近法」の克服を試みた平面的描写で、フランス画壇に衝撃を与える。やがてモネ、ドガ、ルノワールらが彼の周囲に集まるようになり、光の描写を追及する印象派の運動が始まったため、印象派の祖とされたが、マネ自身は印象派運動に直接加わっていたわけではなく、実生活では勲章と名声にあこがれる世俗的な社交家であったといわれる。
モネ(1840-1926)
フランス印象派を代表する画家で、“印象派”の名称も、彼らのグループの第一回展覧会に出品された彼の「印象・日の出」と題された絵に由来する。もっともその絵は、線の描写に重点を置く従来の画壇になかなか認められず、第一回展覧会も批評家からは酷評され、先の“印象派”の言葉も、ある批評家によって嘲りの意をこめて使用されたのが始まりである。マネやルノワールも描いた美しいモデルカミーユを妻としたものの、その絵は売れず生活は苦しく、日々の食事にも事欠くことがあったと言う。しかも79年に最愛のカミーユは、32歳で病に倒れてしまう。その時瞬間瞬間に移ろいゆく情景を描きとめることを追及し続けた彼は、死にゆく妻を克明に描き続けた。画家の業を感じさせるエピソードである。20世紀に入って認められるようになった時には、視力の低下によって細部の認識が不可能になっていたが、その半盲の状態を逆用して、網膜に映るかすみ状の映像を色彩 が解け合う光線として表現。特にセーヌ川より水を引きいれた自宅の睡蓮の池を描いた連作が有名である。その死の時には、首相となっていた友人クレマンソーによって国葬に準じた葬儀が営まれた。
ドガ(1834-1917)
踊り子や競馬などの動きのあるものの一瞬の姿を、逆光や人工照明の演出の下で捉えた印象派の画家。代表作に「踊り子」。晩年はモネと同様視力を弱め、パステル画を愛用して傑作を残した。モネやルノワールが若年の頃生活に苦労したのちに、成功の証として裕福な暮らしを手に入れていったのと対称的に、富裕な銀行家の子として生まれた彼は、不遇時代にも比較的恵まれた環境で製作を続けることができたが、1874年に父が負債を残して死に、加えてアメリカで事業に失敗した弟の負債も肩代わりする羽目になって経済的に苦境にたち、結局死ぬ までそこから脱却することが出来なかった。もともと鋭く激しい性格で一生妻を持たず親しい友人もほとんどいなかった彼は、訪れる絵の賛美者やインタビューの記者を手荒く追い返すなど、晩年はますます孤独の中に閉じこもって生涯を終えた。
ルノワール(1841-1919)
「水浴女」など晩年の裸婦を描いた絵で有名な印象派の画家。職人の子として生まれ、陶器の絵付師として出発。モネと知り合い、おなじ主題をしばしばともに画架をならべて描いて切瑳琢磨しながら、印象派の手法を見いだしていく。後半生は変形リューマチに苦しめられ、腕や脚を満足に動かすことが出来なくなった。そのため時には絵筆を手に縛りつけてまで描いたという。日本の梅原龍三郎が師事している。
セザンヌ(1839-1906)
19世紀末印象派から出発して、物体や自然の根源的形態の把握を求めた後期印象派を代表する画家。代表作は故郷の名山を描いた「サン=ヴィクトワール山」」の連作。自然物を、円錐・球・円筒として捉えようとするその絵画理論は、ピカソら立体派の原点となり、20世紀絵画はセザンヌに始まると言われるほどの決定的影響を現代美術に与えた。が、その大胆で自由な独創性ゆえに当初は「ピストルで描いた絵」などと評価されてまったく認められず、また第一回印象派展にも出品して印象派運動に初期からかかわっていたにもかかわらず、印象派内部にも彼の絵については否定的な見方が強かった。長い不遇時代には、幼少からの親友であった自然主義作家ゾラとの喧嘩別れも経験している。ドガと同じく富裕な銀行家を父としたが、その父とも摩擦が絶えなかった。ところが皮肉なことに、ドガとは逆に反抗していた父が死んでその遺産が転がり込み、生活の安定を得るようになってきた1886年頃から時代の先駆者として評価されはじめ、死の翌年の回顧展が大成功に終わって、前衛芸術の英雄としての名声が確定する。ちなみに死因は常用していた馬車の値上がりに腹を立て、歩いたところを雨にうたれて発病した肺炎である。
ゴーギャン(1848-1903)
「タヒチの風景」など、太平洋のフランス領タヒチ島で多くの独特な傑作を描いたことで知られるフランス後期印象派の画家。有能な株式仲買人として社会的な成功をおさめ、良き妻と5人の子に恵まれ、家庭においては善良な夫であり、日曜画家として時たま絵筆をとるほか、印象派の絵の収集をするだけであったのが、35歳にして突如それまでの生活を捨て、職業画家として立つことを決意。しかし彼の絵はまったく売れず結果として妻と5人の子を捨てることになる。赤貧の生活の中で絵を描き続け、一時ゴッホと共同生活を送ったもののゴッホと喧嘩してゴッホに耳を切らせる事件をおこして破綻。43歳の時タヒチにわたる。そこで膝の痛み、貧困、孤独に悩まされながら現地の女性と同棲して数々の傑作を描いたが、やはりほとんど認められることなく55歳で死んだ。サマセッ卜=モームが代表作「月と6ペンス」でモデルとした。
ゴッホ(1853-1890)
「太陽」「ひまわり」など強烈な色彩 と線の絵で知られるオランダ生まれの後期印象派の画家。日本の浮世絵に大きな影響を受け,そのタッチは,油絵の具で安藤広重の浮世絵版画を模写する中で得られたものだという。「ひまわり」はバブルの頃,日本の生命保険会社が50億だか60億だかの値で買って話題になったが,生前その絵はまったく認められず、買い手がついたのはわずか一枚だけである。美術店員や学校教員や牧師見習いなどの職についたが、いずれも解雇され、幾度かの恋愛もすべてうまくいかず、みじめさのどん底で画家として生きるしかないと決意し、深い信頼で結ばれた弟のテオドルの経済的援助を受けながら画家としての生涯をおくる。が、画家としての生活も悲惨な色合いに満ちている。彼には精神病の資質があり、その上アルコール中毒であった。彼が死の2年前に住んでいた南仏アルルの市民たちは、彼を家族のもとにひきとらせるか、精神病院に入院させてもらいたいと市長に嘆願書を出している。それからまもなくの1889年12月共同生活を送っていたゴーギャンと喧嘩して自分の左の耳を剃刀でそぎ落とし、馴染みの娼婦に送るという異様な事件をおこしてアルルの精神病院に収容。そののちパリ北方のオーヴェル村で最後の絵を残した後、ピストル自殺を計り、二日後駆けつけてきた弟テオドルの見取る前で死んだ。なお弟のテオドルも悲しみのあまり錯乱して精神病院にいれられ、その6か月後に死んでいる。死後その絵は、現代絵画運動の高揚で高く評価されるようになり、特に野獣派のマティスに影響を与えた。
ロダン(1840-1917)
近代彫刻を確立したと言われるフランスの写実主義彫刻家。代表作は「地獄の門」(有名な「考える人」はこの中の一作品)40歳過ぎてから国民的彫刻家として認められ、大きな尊敬を受け、カミーユ=クローデル(後に駐日大使となった詩人ポール=クローデルの姉)という美と天才を兼ね備えた女弟子を愛人とする。一方で彼は世間からは隠そうとしていたものの、20代半ばから事実上の妻としていた農民出身の愚直な女性ローズがあり、結局はカミーユを捨ててローズをとった。事実上彼の共同製作者でありながら、いやそれゆえに自己の発表する作品をオリジナリティーの欠如した師の模倣とみなされて芸術上でも傷ついていたカミーユは、捨てられてついに発狂し、精神病院にいれられる。その生涯はフランスの大女優イザベル=アジャーニの主演で「カミーユ=クローデル」として映画化され話題となった。
ハイドン(1732-1809)
オーストリアの古典派音楽家。音楽好きの車大工を父に生まれ、少年合唱団員をふりだしに音楽家としての人生をあゆみはじめる。50歳頃より名声を確立。老境にはいった90年代になると、ますます旺盛に傑作を発表。ソナタ形式を完成し、交響楽における器楽の地位を向上させ、生涯に「告別」など104曲の交響曲を残し、交響曲の父と称賛される。1809年ウィーンに侵入してきたナポレオン軍の砲撃が鳴り響く中で77歳で死んだ。
モーツァルト(1756-1791)
幼少より天才音楽家としてその名をヨーロッパに轟かし、ドイツ古典音楽を確立した音楽家。代表作として歌劇「フィガロの結婚」死の床で作曲した「魔笛」など。35歳の晩年は貧困に苦しみ、死んだときには葬儀に集まったのは僅か数人の弟子と知人のみで、しかも雪まじりの悪天候のため墓地に見送ることもできず、その遺体は墓掘り人の一人に共同貧民墓地に埋葬され、数十日後にはその場所すらわからなくなった。当時から毒殺説がささやかれ、ライヴァルであったサリエリが疑われた。その説をもとにミロス=フォアマンが映画化したのが「アマデウス」。モーツァルトが実は女であったとヒネリを加えてその生涯をマンガ化したのが、福山庸治の「マドモアゼル=モーツァル卜」。ミュージカルにもなってます。
ベートーヴェン(1770-1827)
古典学派を集大成し、ロマン主義音楽への道をひらいたドイツの大音楽家。「英雄」「運命」などの交響曲で知られる。「英雄」は本来はナポレオンに捧げる意図で作曲され,ナポレオンが皇帝位に就任したことにベートーヴェンが幻滅してその献辞が取り消されたとする有名な説がある。ボンの宮廷音楽家であった父は、息子にモーツァル卜の再来を期待し、年齢を2歳いつわってまで若き天才少年のイメージを演出した。そのため自身後年にいたるまで自分の本当の年を知らなかった。しかもその父はアルコール中毒になって職を解かれ、家計の責任は早くから全て彼にかかり、晩年にも不良の甥のためにひどい苦労をさせられている。また1796年頃から患った耳は1800年頃から悪化し、1815年45歳にして完全に聴覚を失う。1827年に57歳で死んだが、死因はアルコール中毒による肝硬変と診断されている。その生涯はロマン=ローランの教養小説『ジャン=クリストフ』のモデルとなった。
シューベルト(1797-1828)
「未完成交響曲」を作曲したオーストリアの作曲家でロマン派音楽家。近代歌曲の創始者。代表作は「美しき水車小屋の娘」など。終生べートーヴェンを尊敬し、その葬儀では棺をかついだ一人である。またその墓は遺言によりベー卜ーヴェンの隣にある。
シューマン(1810-1856)
ドイツのロマン派音楽家。代表作「子供の情景」哲学博士号を持ち、文学の才にも恵まれ、音楽批評家としてもロマン派の運動を推進。メンデルスゾーン、ショパン、ブラームスの音楽の価値を広く紹介したことでも知られる。が、彼の作曲家・音楽批評家としての出発はピアニス卜としての挫折に始まっている。「シューマンが指の強化装置に熱中した余り、それで筋肉を痛めピアノを断念し作曲家になったのは有名な話である。シューマンは右手の中指を壁に固定した紐でしばり、他の四本の指が弾いているあいだその中指がつられて動くことがないようにした。これを熱心に続けているうち、その縛った中指がマヒして動かなくなってしまった。それだけでなく、やがてマヒは右手全体に及んで、全く使いものにならなくなってしまったのである」一中村紘子「ピアニス卜という蛮族がいる」にもかかわらず、その後多くのピアノ曲を作曲するとともに近代的ピアノ技術を開拓した。しかしその障害に加えて、繊細な神経ゆえの精神病に悩まされ、1854年、急速に悪化した病のため、友人の集まっていた部屋を抜け出し、ライン川に身投げする。この時は救出されたものの、以後精神病院に療養生活を送り、それもむなしく1856年に46歳で死んだ。
ショパン(1810-1849)
ピアノの詩人と称されるポーランド出身のロマン派音楽家。ピアノ音楽の完成者。幼少より天才を発揮し、ポーランドのモーツァル卜と称賛された。国外留学を決意し恩師と親友たちの捧げる別離の歌におくられ、ポーランドの土を入れた銀杯を受けて祖国を去ったのは1830年20歳の時であるが、まさにその20日後、フランスの七月革命に始まるヨーロッパの革命の波はポーランドに及び、ロシアからの自立を求める独立革命がおこる。しかし共に出国した親友が独立軍に参加するために帰国し、ひとり残って孤独と焦燥の中で戦況を見守っていた彼に届いたのは、独立軍がロシアのニコライl世に鎮圧され、ウィーン体制で成立していたポーランド立憲王国(ロシア皇帝が王をかねた)そのものも、消滅させられたというしらせであった。この時、気も狂わんばかりの悲憤の中で作曲したのが「革命」であるといわれる。この体験はポーランド独立を恋願うロマン主義者として彼を決定づける。31年よりフランスに居を定め、ロマン主義絵画の代表者ドラクロワなどと交流するー方で、女流作家ジョルジュ=サンドとの運命的な出会いと離別 を経験。ピアノの名手にして天才的な作曲家としての名声を確立し、熱狂的な女性ファンを獲得するが、生来虚弱だった彼は早くも25歳の時に最初の喀血をし、1849年39歳で死んだ。
ワーグナー(1813-1883)
楽劇を創始し、多くの北欧神話にもとづく歌劇を作曲してドイツ=ロマン派を大成した音楽家。代表作は「神々のたそがれ」「トリスタンとイゾルデ」など。51歳の時南独バイエルンの青年王ルードヴィヒ2世(狂王として有名)に国賓としてミュンヘンに招かれた頃から、大作曲家としてようやく世に認められるようになる。以後リス卜の娘にしてハンス=フォン=ビューローの妻コジマを不倫の恋愛の末に奪ったり、ニーチェとの交流と決別を経験するなど様々なエピソードを残しながら精力的に傑作を発表。バイロイ卜に専用の劇場を建設し、年に一度開かれるバイロイ卜音楽祭は現在にいたるまで続いている。ただ、ドイツ民族の音楽家として特にナチスドイツで称揚されたため、イスラエルでは公式の上演は事実上禁止されている。
チャイコフスキー(1840-1893)
民族的伝統を表現しようとする国民音楽の、ロシアを代表する作曲家。特に「白鳥の湖」が有名。同性愛的傾向があり,結婚生活は不幸でわずか三週間で破局をむかえ神経衰弱となって自殺未遂事件をおこしている。全ヨーロッパに名声をとどろかせ、称賛を受けるようになった後も厭世癖は強まっていった。1893年ペテルスブルクで大流行していたコレラに感染して死んだが、それは周囲の制止をふりきってネヴァ川の生水を飲んだ結果であり、実質自殺というべきである。死因については、同性愛の暴露を恐れてヒ素で自殺した、あるいはある公爵の甥との同性愛が発覚し、両者の名声と社会的地位から秘密弾劾裁判が行われ、名誉を守るべく自殺の判決が下されてそれに従った、との説もある。
ドビュッシー(1862-1918)
現代音楽の源流である印象派音楽を創始したフランスの作曲家。小市民の家に生まれ、音楽教育を受ける環境になかったが、象徴派の詩人ヴェルレーヌの義母に才能を見いだされて無料でピアノレッスンを受けられるようになり、11歳の時にはパリ音楽院に入学を許可。その後チャイコフスキーの保護者として有名なフォン=メック夫人の家庭ピアニス卜となったり、マラルメの主催する象徴派詩人のサークルに出入りしたりしながら、次第にそれまで圧倒的であったワーグナーの影響を脱し、自己の立場を確立していった。代表作「牧神の午後への前奏曲」は1991年の日本で紀子様が胎教に使用しているというので話題になった。直腸癌のため、1918年第一次大戦でドイツ軍の爆撃を受けるパリで死亡。