サッカーのスペインリーグ(リーガ・エスパニョーラ)は,イタリアのセリエAと共に,世界のスーパースターが集結する世界最高峰を誇るリーグである。スペイン自体のサッカーのレベルも非常に高く,日本が準優勝した1999年のワールドユース大会で,その日本から4点を奪って優勝したのがスペインチームだったのは,われわれの記憶に新しい。そのスペインのナショナルチームの通称がアルマダ(無敵艦隊)。ところが,世界トップ級の実力を誇るはずのこのアルマダが,国際試合の檜舞台ではぱっとしない。1998年のフランスワールドカップでも,まさかの一次リーグ敗退を喫している。
その理由に,ナショナルチームであるアルマダが,スペイン内でさほど人気がなく,国民の熱狂的なサポートを得られていない,という日韓ワールドカップ開催に向けて盛り上がっている日本人や韓国人には,にわかに信じがたい事実がある。
しかし,ここにこそ,スペインの歴史を解くカギが隠されているのだ。
大西洋と地中海の接点に位置し,アフリカと接するスペインは,古くから様々な勢力が往来し,地域ごとに異なった歴史を歩んできたため,地域の自立性が強い。
従って地域によっては,自分たちのクラブチームは応援しても,代表チームに対してはほとんど関心を持たないということが,起こりうる。
例えば,フェリペ2世によって1561年にスペイン王国の首都に定められたマドリードのクラブであるレアル・マドリードでは,ユニフォームの襟元にスペイン国旗が縫い込まれ,そのホーム・スタジアムでもスペイン国旗がうち振られて,スペイン国家への帰属意識が強い。しかし,そのレアルと共に,リーガ・エスパニョーラの二大クラブを構成し,レアルを宿敵と見なすFCバルセロナ(通称バルサ)のホームスタジアムカンプノウで,スペイン国旗を見ることはほどんどない。カンプノウを埋めるのは,カタルーニャ地方の旗なのである。
バルセロナは,本来「バルカ家の町」を意味する。第一次ポエニ戦争で敗北した後,カルタゴの将軍ハミルカル・バルカは,対ローマの前進基地とするため,イベリア半島に進出した。その時,建設された都市の一つが,バルセロナの起源となる。しかし,ハミルカルの遺志を継いだ息子のハンニバルはローマを大いに苦しめたものの,結局は敗れ去り,バルセロナもまたローマの属州ヒスパニアの一地方となった。その後,西ゴートの支配を経てイスラム勢力の下に置かれたバルセロナは,801年にイスラム勢力からこの地を奪取したフランク王国に属することになり,やがて独立してバルセロナ伯領となる。早くからイスラム支配から脱したバルセロナ伯領は,南フランス地域との文化的関係を維持し,イスラム勢力下でその影響を強く受けた他の地域とは異質の,カタルーニャ語に代表される独自のカタルーニャ文化を発展させた。12世紀の初めにはカタルーニャ王国が成立し,やがて隣接するアラゴン王国と同君連合を形成したが,ここでもアラゴン王国とは別個の自治組織を有していた。そしてアラゴン王国によるレコンキスタの進展と,地中海進出の恩恵を受けたバルセロナは,ジェノヴァやヴェネツィアと並ぶ地中海交易の中心の一つとして,また西アフリカの黄金貿易で,大いに繁栄したのである。しかし,そのアラゴン王国がカスティリャ王国と合併してスペイン王国を形成すると,カスティリャの主導下で,カタルーニャの政治的地位は低下する。その後のカタルーニャの歴史は,中央支配の強化に対する抵抗の歴史として展開し,スペインの中心であるカスティリャに対する,カタルーニャ人の独特の対抗意識を育んでいく。特にスペイン内乱で人民戦線側に立ったカタルーニャ地方が,その後のフランコ独裁時代に徹底的な文化抑圧政策を受けたことは,首都のクラブであるレアル・マドリードに対してバルサを熱狂的に支援するカタルーニャ人の心情形成に決定的な影響を与えた。
同様に独自の言語と民族的伝統を持つバスク地方では,バスク人純血主義をとるアスレティック・ビルバオに人気が集中している。そしてイスラム文化の影響を濃厚に留める南部のアンダルシア地方では,リーガ・エスパニョーラの一部で活躍するクラブがマラガのみで,他の地域に比べると住民のサッカーに対する情熱自体が薄いと言われる。
スペインのサッカーは,まさしくスペインの歴史を反映しているのである。