ルーベンス(1577-1640)
奔放華麗な画風を持つフランドル出身のバロック絵画の巨匠。代表作は「マリー=ド=メディシスの生涯」外交官としても活躍するなど多くの恵まれた素質を持ち、「いうことなすこと、すべてだれにもよろこばれるように生まれついていた」という性格で、最初の妻の死後53歳で16歳の美少女と結婚。5人も子供を産ませ、フランドルの豪著な館で幸福な晩年を過ごす。63歳で苦しむことなく死去。
ファン=ダイク(1599-1641)
ルーベンスにその才能を最も愛された弟子。しかし、ひとり立ちして後、師の名声は神経質な彼を圧迫。招かれるままイギリスにわたり、宮廷画家として活躍。傑作「チャールズl世像」などを残してイギリス絵画に圧倒的な影響を及ぼした。
レンブラント(1606-1669)
光と影を強調する、写実的な画法を確立したオランダのバロック画家。『毛織物商会員』などオランダ盛時の市民生括を描く。しかし、肖像画の第一人者としての名声を獲得しながら、30代半ば頃から肖像画を描くことをやめ、自己の芸術の確立(有名な団体肖像画の傑作『夜警』は、その始まりを告げる作品)と、聖書物語の鋼版画製作に熱中。そのため次第に名声と絵の注文を失い、最愛の妻にも先だたれ、晩年は破産状態となって
63歳でユダヤ人地区の貧しい家でみとる人もなく死んだ。
エル=グレコ(1541-1614)
ルネサンスとバロックを結ぶ画家でスペインで活躍し、多くの肖像画や宗教画を残す。妙に細長いその独特な人物描写でも有名。代表作は『オルガス伯爵の埋葬』『聖母昇天』実はこの名はクレタ島出身であることからついたあだなで「かのギリシア人」という意味。ちなみに本名はドメニコス=キリアコス=テオトコプーロス…。受験で本名を書けと出てくることはまずない。たぶんない。絶対ない。なくてよかったよ。
ベラスケス (1599-1660)
スペインのバロック画家。ルーベンスとの出会いによりその絵は著しく向上したという。優れた肖像画や風景画を残し、代表作は「ブレダの降伏」「女官たち」など。スペインの宮廷画家となり、40年近い宮廷生活を送り、スぺイン王室の深い信頼を受けて、宮廷の要職にもついた。特に晩年は宮廷外交官としての仕事に忙殺され、最後の仕事もスペイン王女とルイ14世の婚約に関する煩わしい公務であった。
ムリリョ(1617-82)
スペインの画家でベラスケスの弟子。代表作は『聖母受胎』17世紀のスペインで最も多作な画家である。教会の壁画の製作中、誤って足場から落ち重傷をおって数日後に死亡。
ワトー(1684-1721)
代表作『シテール島への船出』は、愛の島シテールへの巡礼に旅立とうとする若い男女が木陰に集う様を描いたもので、ロココの時代の到来を告げる作品。以後、貴族の屋外での宴会風景を優美繊細に描く雅宴画で一世を風靡した。もっとも本人は田舎の屋根葺きの親方の息子に生まれている。生涯病身でそれが彼の絵画に独特の憂愁の色をおとしているが結局肺病が原因で37歳で早世。
バッハ(1685-1750)
バロック音楽を代表する教会音楽家で近代音楽の父と称される。代表作は『マタイ受難曲』もっともその存命中は、楽長としての名声をごく狭い範囲で得ただけで、作曲家としては無名であった。多産の家系であり、その一族の多くが音楽に関係したことでも有名。本人も、最初の妻との間に子供が7人。二度目の妻との間に13人。どうだ。
ヘンデル(1685-1759)
ドイツのハノーヴァーの宮廷音楽家であったが、アン女王の死によってステュアート朝が断絶し、ハノーヴァー公がジョージl世としてイギリス王に招かれた(ハノーヴァー朝の成立)のを機にイギリスにわたる。バロック音楽を大成しオペラ作家としても名声を博すも、ロンドンを襲った不況の中で経営するオペラ団が倒産。この窮状の中にあって、旧友の詩人から送られた詩を読んで凄まじいインスピレーションを得、3週間ほとんど不眠不休でとりつかれたように作曲。こうして完成したのが代表作『メサイア』である。そして世に問うたこの傑作の成功によって、絶望のどん底から復活するのである。
コルネイユ(1606-1684)
ラシーヌと並び称される、ルイ14世時代を代表する悲劇作家。理性と意思の勝利をテーマにして『ル=シッド』などの傑作を残し、その作品は今日でもくりかえし上演されている。しかし晩年には失敗作が続き、家庭の不幸に加えて年金も取り消され、世の中から忘れられて不遇のうちに死去した。
ラシーヌ(1639-1699)
コルネイユと並び称されるルイ14世時代を代表する悲劇作家。幼くして孤児となり、パスカルが所属したこと、イエズス会に対抗する運動を繰り広げていたことで有名な、ポール=ロワイヤル僧院で教育を受ける。ー時は文学に心酔して僧院を攻撃したものの悔い改め、キリス卜教信仰に基礎を置いた傑作を次々に発表。代表作『フョードル』は「完壁な美しさでキリス卜教的な霊にもとづいたもの」と評されている。実人生でも敬虔なキリス卜教徒として生き、死んだが、彼をとりまく環境は、かなり俗悪なものであった。この時代のフランスでは有力者のサロンが競いあって卑劣な陰謀や悪意ある批評が繰り返され、コルネイユも彼もそれに悩まされ世評高い『フョードル』すら、初演は競争相手の陰謀と妨害により失敗に終わっているのである。
モリエール(1622-1673)
ルイ14世時代の代表的喜劇作家で、代表作は『タルチェフ』『守銭奴』『人間嫌い』など。現在のコメディー=フランセーズ(フランス国立劇場)は彼の劇団に始まる。王室に関係する富裕な商人を父とし、その跡を継ぐ筈であったが、女擾マドレーヌ=ベジャールに恋して芝居の世界に飛び込み、マドレーヌの兄弟姉妹と〈盛名座〉を結成。自ら俳優として舞台に立つ。しかし不入りで2年ともたず破産。負債を払えず、一時は監獄に放りこまれるなど散々な目にあった。パリを逃れて地方まわりの劇団として再出発。再びパリに戻って名声を確立したのはようやく15年の後である。その作品は笑いの中に鋭い風刺を盛り込んだもので、例えば『タルチェフ』は一人の偽善者の姿を通じて、当時社会に大きな勢力を占めていたイエズス会に痛烈な攻撃を加えたものである。53歳の時に自作の舞台に出演中、発作におそわれ、舞台を終えると同時に喀血して死ぬという、演劇人としての生涯を全うした。
ミルトン(1608-1674)
17世紀ピューリタン文学を代表する詩人。イギリス文学史上シェークスピアと並び称される。「クライストの貴婦人」とあだ名されるような、美貌の青年詩人として出発。ピューリタン革命にさいし、その擁護のために立ち上がり、信仰・家庭(離婚の自由を主張)・言論の自由のために戦う。政府の検閲に反対し、言論の自由を主張した『アレオパジティカ』を執筆。(2003年の慶応法で<17世紀に活躍した人物で、ピューリタン革命を支持し、言論の自由の古典と言われる『アレオパジティカ』を書いたのは誰か>という問題が出題された。<ピューリタン革命を支持し>て言論活動をおこなった人物は、入試世界史的にはミルトンしかいないので解答不可能なわけではないが、難問)。チャールズ1世の処刑を弁護した論文などで、いちやく全ヨーロッパに名声を轟かせるも、激しい職務のために失明。王政復古後奇跡的に処刑を免れ、失意の底からアダムとイブの楽園追放に題材をとった代表作『失楽園』を著した。
バンヤン(1628-1688)
17世紀ピューリタン文学の代表的文学者。バプテスト派(現在プロテスタント自由教会派の最大教派・信徒数2千万)の牧師。清教徒革命にさいし、議会軍の一兵卒として参加。後信仰の道に入り、27歳のころより平信徒ながら説教壇に立つようになる。王政復古による新教各派弾圧の動きの中で、無資格で説教をしたことを理由に投獄され、12年にわたる獄中生活を送る。この間に9冊の書物を叙述。出獄後牧師として各地に遊説旅行を行うも、3年後に再び投獄。ここで著述したのが天国にいたる道中記『天路歴程』である。出獄後はバプテスト派の中心人物として精力的な活動を続けた。
デフォー(1660-1731)
イギリスの作家・ジャーナリスト・詐欺漢・大英帝国スパイ組織の父。あり余る才能を持ちながら、実人生においては破産と裏切りを繰り返した人物として記憶される。代表作は『ロビンソン=クルーソー』。ロンドンの肉屋の息子として生まれる。青年期より政治に関心を示し、1685年にはジェームズ2世に対する反乱事件に連座。あやうく処刑を免れ、l688年にはウィリアム3世の革命軍に参加。その後裕福な花嫁を迎え、メリヤス商を営み一時的な成功をおさめるも、浪費と放漫経営で破産。債務不履行で逃亡生活を送る途中のl694年、オランダ人で国民に不人気だったウィリアム3世を支持するパンフレットを出版。政府の官職を与えられ、職権を利用して陶器工場の経営を始め借金返済に成功した。1702年アン女王即位後の非国教徒排斥の機運の中で、反語的に非国教徒を撲滅せよと唱えて国教徒の残酷性を訴えるパンフレツトを出版し、議会の国教徒の怒りをかって3日問のさらし台の刑の後投獄される。が、逆にこれによって民衆のヒーローとなり、さらし台に集まってきた群衆は彼に花束を雨のように降らせたと言われる。獄中において政治評論ばかりか獄中の泥棒や殺人犯のイ
ンタビュー、有名人のスキャンダル、幽霊話などを満載した新聞を発行。今にいたる英国大衆新聞の原型をつくり、反政府派のジャーナリストとして名声を得るが、その裏では自由を得るために政府高官に反政府派弾圧のスパイ組織結成を提案。許されて出獄後、政府のためのスパイ組織網を組織し、その影の支配者として辣腕を振う。しかしその変節の多い言動が政府からも反政府派からも疑われるようになり、政治活動とスパイ活動を断念。せっぱつまった挙げ句に59歳の時に書き上げ、ベストセラーとなったのが『ロビンソンクルーソー』である。この成功に味をしめ、以後は憶面もなく同傾向の作品を書きまくり巨富を築くも、69歳の時突然その大邸宅より失綜。ぜいたくな生活により巨額の負債をおったからとも、息子との不和によるとも言われる。71歳の時、隠れ住む小屋でひっそりとその波乱万丈の生涯を閉じた。
スウィフト(1667-1745)
アイルランドに生まれ、聖職者となる。しかし政治に関心を抱いてイギリスにわたり、政界、文壇界の黒幕的存在となり、鋭い論評で恐れられた。アイルランドに帰って人嫌いの傾向に拍車をかけながら50代で『ガリヴァー旅行記』を著す。この作品は大人国と小人国のくだりが子供向けに紹介され、ユーモラスなお伽話といったイメージがありますが、本当は当時のイギリス社会批判のみならず、人間に対しても根本的な意義申し立てをおこなった、非常にハードな作品です。最後の馬の国では、馬が万物の霊長で最も優れた生物、人間はヤプーと呼ばれて最も卑しむべき生物として描かれていたりする。で、人間嫌いの彼は1730年代より精神錯乱の傾向を示すようになり、75歳にして痴呆状態となって77歳の時「阿呆だ俺は」という一言を最後に言葉を失って翌年死去。二人恋人がいたものの「正常な関係」ではなかったことが、知られている…と。
ホッブス(1588-1679)
17Cイギリスの哲学者・政治学者。哲学者としては唯物論哲学を唱えたが、自然法と社会契約説の考えから、初めて市民社会の理念(現代社会の原則)を明らかにし、にもかかわらず絶対王政を擁護した政治学者として特に重要である。彼の説は、主著『リヴァイアサン』に展開されているが、人間は自由・平等であり、生存の権利を有する〈自然権〉ことを認めることから出発する。しかし自然権を個々人が無限に追及すれば必ず個々人の利害の衝突を呼び、「人間は人間にとって狼である」から「万人の万人に対する闘争」が始まってしまう。だから人間は契約を結び<社会契約>自然権を放棄して社会・政府・国家(この場合は絶対王政)に預けたのであり、社会・政府・国家は絶対的な権利を持つとするのである。彼が提示した個人と社会、個人と国家の関係をいかに結ぶかという問題は、現代の我々につきつけられた問題でもある。
ロック(1632-1704)
l7Cイギリスの哲学者・政治学者。哲学者としては『人間悟性論』で経験論哲学を確立。政治学者としてはホッブズと同じく社会契約説に立ちながら、社会・政府・国家はあくまで国民から自然権を預けられたもので、主権は国民にあり、政府がそれを裏切って国民を圧迫するようなら国民には政府をとりかえる抵抗権があるとする。王政復古後亡命していたが、名誉革命の発生とともにメアリ2世と同船してイギリスに復帰。『市民政府二論』を著して名誉革命を擁護し、名誉革命の哲学者と言われる。彼の思想はフランス啓蒙思想に受け継がれ、アメリカ独立革命の独立宣言にも影響を与えた。
ヒューム(1711-1776)
18C、人間の「心」を感覚の束として捉え、自明のものとされていた「心」の存在そのものを疑う懐疑論を唱えたことで有名なイギリスの思想家。代表作は『人性論』親しみやすいエッセーの形で著作を発表し、全ヨーロッパ的な名声を獲得して、ヨーロッパ社交界の花形となる。フランスでルソーと知り合い、イギリスにルソーをともなってその亡命生活に尽力。ところが両者は感情の行き違いから決裂し、ヨーロッパ社交界の大きな話題となった。
デカルト(1596-1650)
代表作『方法序説』の“我思う故に我在り”の言葉で有名な合理論哲学の祖。フランスの官僚貴族の家に生まれる。イエズス会の学院でスコラ哲学を学ぶ一方、ルネサンス的な汎神論的宇宙解釈にも触れるが満足できず、数学こそが確実な学問であると考えて数学的思考法、すなわち演繹法を理論の墓礎においた。1628年に自己の思想をまとめ、公表するためにイエズス会の勢力の強いフランスを逃れ、オランダに移り住んだ。48年学問好きのスウェーデンのクリスティーネ女王に招かれた時、一旦は病弱な自己の身体と北国の寒気を考え併せて断ろうとしたものの、結局は女王の懇願に負けてスウェーデンに渡り、翌年たちまち肺炎になって死亡。
パスカル(1623-1662)
フランスの早熟の天才で優れた数学者・物理学者・哲学者。賭けの分け前をどうするかという間題から、確率論を創始。物理学者としては流体の圧力に関する法則を発見。後年は宗教的経験から、当時カトリックで最も禁欲的な運動を展開していたポールロワイヤル僧院に属し、対立関係にあったイエズス会と論戦。ついで無神論・自由論からカトリックを守る著作を構想中に死んだ。その覚え書きとして残されたのが“人間は考える葦である”の言葉で有名な『パンセ』である。
スピノザ(1632-1677)
神とはすなわち自然であり、万物に存在するとする汎神論を唱え、“神に酔える人”と呼ばれたオランダの哲学者。主著は『エチカ〈倫理学〉』宗教的迫害を逃れてポルトガルからオランダに渡ったユダヤ人の子孫として生まれ、はじめユダヤ教の教育を受けたもののその思想ゆえにユダヤ教から破門。哲学者として名をなした
41歳の時、ハイデルベルク大学正教授に招かれながら、自己の思想の自由を守るためにこれを固辞。生涯結婚せずレンズ磨きのアルバイ卜で生活費を得ながら自己の思想の確立につとめ、45歳で清貧・孤高の生涯を終えた。
ライプニッツ(1646-1716)
15歳で大学入学が認められた早熟の天才で、微分・積分数学を創始した優れた数学者であり、単子<モナド>を世界の構成要素とする単子<モナド>論を唱えて科学と宗教の統一を図った合理論の哲学者でもある。その他にも法学者、外交官としても活躍し、オランダを訪れた際、死の直前のスピノザと哲学問答を交わしたことが知られている。しかし晩年は悲惨で、宮廷から冷遇され人々から忘れられ、通風で死んだときには葬儀に出席したのは秘書ただ一人であったという。墓の所在すらわかっていない。
カント(1724-1804)
近代最高の哲学者と言われるドイツの哲学者。『純粋理性批刊』『実践理性批判』『判断力批判』などの著作で批判哲学と称される哲学説をうちたて、イギリス経験論と大陸合理論を統合してドイツ観念論哲学を創始。北ドイツプロイセンのケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で皮具匠の息子として生まれ、故郷ケーニヒスベルクの大学に勤める。身長1メートル50そこそこ、頭だけ大きく、筋骨薄弱で虚弱体質であったが、「時計のように正確な」規則正しい生活を送り、80歳まで長命。最後の言葉「エス・イス卜・グー卜 Es ist gut」が「すべてよし」という大哲学者最後の言葉として有名になる。but しかし実は彼は晩年はただやたらにパンとチーズをむさぼり喰うだけで、親しい人の名を忘れ、アルファベッ卜も忘れ、自分の名さえ書けない惚け老人になってしまっていたのである。「エス・イス卜・グー卜」、英語で表現すれば「It is good」。これは最後にぶどう酒をスプーンで飲ませてもらって言った言葉。賢明な君たちにはどう訳せばいいか、わかるね。そう、これは、日本語ではただ単に「うまい」と訳すんである。『偉人』がなぜ偉いかといえ ば、われわれと同じく人間的な弱みと宿命を持ちながら、それでもそれを越えて何事かをなしとげたからであって、『偉人』といえばあらゆる面 ですごい、というように祭り上げてしまうのは、かえってその人をおとしめ、翻って自己の努力のなさを誤魔化す行為であると考える者であるぞ、私は。
ボイル(1627-1691)
イギリス貴族の子として生まれた科学者。フランシス=ベーコンの実験科学に魅せられ、父の遺産をもとにオックスフォードに研究所を設立。敬虔なピューリタンとして生涯独身のまま実験と研究の生活を送り、気体の圧力と体積に関する法則を発見して気体力学の出発点を確立。一方で「王立協会<ロイヤル=ソサエティ>」の設立にも尽力した。
ホイヘンス(1629-1695)
振り子時計を発明したオランダの科学者。もともと天体観測に興味を持ち、振り子時計の発明も、観測のために正確な計時が必要であったことによる。レンズ磨きの新しい技術も開発し、自作の望遠鏡で土星の輪を発見。光の波動説の理論でも重要。
ニュートン(1643-1727)
1687年の『プリンキピア』で万有引力の法則を発表し、近代物埋学を確立。26歳の時に師からケンブリッジ大学の教授職を譲られるほどの天才ぶりを示したが、性格は怒りっぼく、ある種冷酷なところがあったという。出生前に父に死なれ、3歳の時母は彼を祖母に預けて再婚。再婚先でまたも夫に先だたれた母が3人の異父弟妹を連れて彼のもとに帰って来たのが14歳の時。以後かなり反動的な性格の母親と不自然なまでに密着した関係となったことが、生涯独身で過ごしたような性的不能と、その特異な性格を決定づけたのでは、とのみもふたもない分析がある。後年は錬金術の研究に没頭して、おそらくその時使用した水銀が原因の水銀中毒で、50歳頃より一種の精神異常の傾向を示す。というわけでもちろん、ついうっかり懐中時計を卵と間違えて鍋で煮てしまったという微笑ましいエピソードは偉人伝によくある嘘である。自説の反対者や諭争相手には徹底的かつ執拗で陰湿な報復をおこない、61歳で当時最高の科学の権威であるロイヤル=ソサエティの会長となると、自己を神格化し権威を更に高めるため、協会の行事を宮廷儀礼にならって改変。死ぬまで会長職にとどまり、イギリス学会に帝王として君臨した…こういう人が上司にいると不幸だろうな、かかわりあいになりたくないな、と思うのは私だけではあるまい。
ハーヴェイ(1578-1657)
1628年に血液の循環を立証した生理学者・医者。ケンブリッジ大学とイタリアのパドヴァ大学で学び、特にイタリアでは解剖学を学んだ。帰国後ロンドンで開業し、のちに王立医科大学の教授となったのを皮切りにオックスフォード大学の教授やメルトン大学学長を歴任。ジェームズ1世とチャールズl世の侍医もつとめている。その他、「すぺての生物は卵から」という原則をたて、生物の自然発生説を否定したことも重要。
ラヴォワジエ(1743-1794)
質量不変の法則を確立し、近代科学の祖と称されるフランスの科学者。政界に進出し、アメリカ独立革命の時には外交官としてアメリカを援助するなど活躍。1789年のフランス革命の勃発に際しても補欠代議士に選ばれた他、新度量 衡設立委員会委員・財務委員会委員などに選出されている。しかし旧制度下で徴税請負人をしていたことが悲劇を呼ぶ。革命の激化とともに政権を握った国民公会のジャコバン派は、全徴税請負人の逮捕を命令。自首をした彼も友人の科学者たちの嘆願にもかかわらず「共和国に学者は不用である」と断じられ、断頭台にその命を終えるのである。
ラプラース (1749-1827)
フランスの数学者。天文学者。カン卜の星雲説を発展させ、宇宙進化論を唱える。1749年貧農の子として生まれ、1827年侯爵として死んだ。その人生はラヴォワジエと対照的で、同じく政治に関与しながら彼はナポレオンの時に内相となり、ナポレオン退位後の王政復古にあたっては巧みにルイ18世に乗り換え、これに仕えて人生をまっとうしている。もっとも政治的な無節操に対する批判は当時からあった。
リンネ(1707-1778)
植物分類学を創始したスウェーデンの生物学者。学芸好きの牧師の子として生まれる。大学卒業前にはもう植物学の代講を任されるような秀才であったが、貧しい苦学生であり、婚約者の経済的援助でやっと学位を得るところまでこぎつけた。後に植物学の権威として全ヨーロッパ的な名声を獲得。彼が教授をつとめるウプサラ大学にはその名声を慕ってヨーロッパ中から学生が集まったという。
ジェンナー(1749-1823)
18世紀末に種痘法を確立したイギリスの医者。これによって人類は天然痘の予防法を手に入れ、伝染病撲滅の第一歩をしるした。故郷の開業医として愛敬とユーモアあふれる性格と、詩や音楽への天分で人気を得ていた人物であるが、自分の子供で実験したという子供向け伝記の逸話は創作である。
ボーダン(1530-1596)
16世紀フランスを代表する政治学者。1576年ヨーロッパ最初の体系的政治学の書といわれる『国家論』を著す。王権による国内統一が進められていた当時の世情を反映して絶対主義を擁護し、王権神授説を唱える。また初期の重商主義経済学者としてコルベールの先駆とされている。
フィルマー(1589-1653)
王権神授説を唱えたイギリスの政治学者。熱烈な王党派でチャールズl世に仕え、チャールズl世によってナイ卜に列せられた。そのためピューリタン革命の時には10回も邸宅が略奪されたと言われる。死後の1680年に主著『族父長論』が発表されたが、ここでは王権神授説と絶対王政の由来を聖書のアダムの家長権においている。
ボシュエ(1627-1704)
フランスの司教・説教家で雄弁で知られた。ルイ14世に皇太子の家庭教師として招かれ、10年間その教育に従事。1680年の『聖書政治学』81年の『世界史論』で王権神授説を唱え、この学説の代表的思想家とみなされる。特に注目されるのは、彼がここで「主権」という言葉を、神から王国内の王権を授かった君主が、教皇や皇帝の許可を受けることなく、自由に戦争をする権利として構想していることである。皇帝や教皇といった中世ヨーロッパのキリスト教共同体を支えていた普遍的権威が没落し、各国が国王のもとに集権化して、主権国家が並立し、条約と国際法で関係を規定しあう主権国家体制は、イタリア戦争期に始まり、西欧では三十年戦争のウェストファリア条約によって確立したと考えられるが、それに理論的根拠を与えた王権神授説において主権がまずなによりも自由に主体的に戦争をする権利として構想されていたことは、主権国家が戦争マシーンとしての性格を強く帯びていたことを示唆する。実際に主権国家体制が発展していく時代であった近世は、なによりも絶え間ない戦争の時代であったのである。
グロティウス(1583-1645)
国際法の父と称されるオランダの自然法学者。14歳で大学を卒業し、神童の評判をヨーロッパに響かせ、フランス王アンリ4世をして“オランダの奇跡”と感嘆せしめた。オランダが独立を確保した1609年に『海洋自由論』を著し公海の自由を説く。しかしその後オランダを2分した政争に巻き込まれて逮捕され、国家転覆の陰謀の罪で終身禁固の刑を受け財産を没収された上に古城に2年間幽閉。妻の手引きで書物運搬用の箱に隠れて奇跡的な脱獄を果たし、フランスなどに亡命した後、スウェーデン宮廷に仕えた。フランスに滞在中、見聞した三十年戦争の惨状に、戦争時においても平和時においても国際法が必要であることを痛感し、1625年名著『戦争と平和の法』を著した。
モンテスキュー(1689-1755)
フランスの啓蒙思想家。ボルドーの高等法院長をつとめた。パリ在住のペルシア人の故郷への手紙という形式で、フランスの社会を軽妙に風刺した『ペルシア人への手紙』で文名があがる。40年を費やして完成した『法の精神』はイギリスの立憲政治をたたえながら三権分立を説いた不朽の名作である。
ヴォルテール(1694-1778)
フランスの啓蒙思想家。1734年、イギリスの制度や思想を紹介してフランスの現状を批判した『哲学書簡』で有名であるが、その他にも小説・詩・戯曲・評論などでも多才な才能を発揮。中国の朱子学を賞賛したことでも知られる。無神論者でカトリック教会を痛烈に批判し、いくどか投獄され、ついにフランスからの亡命を余儀なくされる。しかし国外においても旺盛な執筆活動を続け、プロイセンのフリードリヒ2世やロシアのエカチェリーナ2世とも文通して「ヨーロッパ最高の英知」との名声を確立。1777年83歳でついに婦国を許されてパリ市民の歓呼の中を王者のように凱旋した。しかし翌年の死にさいしてはあくまでカトリックを認めなかったため、パリに埋葬することが許されなかった。l3年後フランス革命の革命政府がルソーとともに国家の英雄としてパンテオンに埋葬しなおしたが、両者の遺骸はその23年後何者かによって盗み出され、今もって行方不明となっている。
ルソー(1712-1778)
ジュネーブで生まれ、パリを中心に活躍した啓蒙思想家。自由・平等を主張した『人間不平等起源論』と主権在民・直接民主政の主張で有名な『社会契約論〈民約論〉』はフランス革命、特にジャコバン派のロベスピエールとサン=ジュス卜に大きな影響を及ぼしている。また文明と人為を悪として“自然にかえれ”をモッ卜ーとし、ロマン主義の先駆となった。その影響は王妃マリー=アントワネッ卜にも及び、彼女が宮廷内に農家風の家をつくってそこで「自然にかえった」生活を楽しんだことが知られている。もっとも本人はというと『民約論』を著しながら貴族の夫人の愛人として生活し、不朽の教育論の名著『エミール』を著しながら、生まれた自分の子供は片っ端から孤児院に放り込む、矛盾と謎に満ちた人物でもあった。
ディドロ(1713-1784)
フランスの啓蒙主義者・文学者・唯物論的哲学者。アンシャンレジーム末期の腐敗・不正と闘い、百科全書派の中心人物としてフランス啓蒙思想を集約した「百科全書」の刊行に取り組む。この事業は検察当局の弾圧や度重なる一時発禁処分にあいながら、175l‐72年にわたって続けられた。特に1759年に出版特許を取り消されて寄稿家の大部分が脱落し、盟友ダランベールも抜けてからは、寄稿者はディドロの他は一人だけで地下出版という最悪の状況下で事業を継続する執念を見せた。また小説家としてもゲーテをはじめ後世に与えた影響は大きい。エカチェリーナ2世との交友も有名で、晩年にはペテルスブルクにエカチェリーナ2世を訪問した。
ダランベール(1717-1783)
フランスの啓蒙主義者・数学者・哲学者。パリで私生児として生まれ、捨て子として発見されるという出生を負う。ディドロと協力して「百科全書」の刊行にとりくみ、総序文をはじめ多くの数学的項目を執筆し、自然科学の普及に努めた。
ケネー(1694-1774)
フランスの外科医にして重農主義経済学の創始者。社会科学としての経済学は彼の『経済表』に始まると言われる。はじめは外科医として名声を博し、ルイl5世の愛人ポンパドゥール夫人の侍医となり、後にはルイ15世本人の侍医ともなった。経済学者としての出発はディドロの編集する『百科全書』への執筆に始まる。フランス各地を旅行して農業荒廃の現実を知り、国家の富の源泉を農業生産に求め、経済統制を説く重商主義を批判してレッセ=フェール(なすにまかせよ)を標語に農産物の自由取引や農民の減税を主張した。
テュルゴー(1727-1781)
フランスの重農主義者・政治家。祖父は州知事、父はパリ市長をつとめた名門に生まれる。『百科全書』にも執筆して当時の代表的な哲学者たちと交流する一方、政治家としても業績を上げる。1774年ついにルイl6世に財務長官に任じられ穀物取引の自由化、賦役の廃止などの重農主義にもとづく改革をおこなってフランス革命の先駆と評価されたが、76年にその任を去ることを余儀なくされた。
アダム=スミス(1723-1790)
l776年「神の見えざる手」であまりにも有名な『国富論』を著し、古典派経済学の祖とみなされるイギリスの道徳哲学者。重商・重農両経済学を批判し、自由放任主義を主張。分業と商品交換を重視。彼の理論はイギリスに発生していた産業革命を背景に資本主義社会の諸現象を明らかにしたもので、新興の市民階級の経済思想を理論づけるものであった。父が誕生前に死亡し、母一人子一人で育ち、母と同居したまま生涯独身で過ごす。61歳の時母が90歳で死に、以後健康が衰えて67歳で死んだ。財産の殆どは生前ひそかに慈善事業に寄付されていた。