押井守監督の新作「イノセンス」」を観てきたので、その感想を記す。

 観てないひとには、何について書かれているのか、よくわからない文章かもしれないが、映画の場面場面をいちいち説明するのは面倒なので、どうかご容赦願いたい。

 現在の日本のアニメーション技術がどの程度のものなのかを確認したい方にはお勧めである。

 映画の舞台となっている世界を表わすには、あまりに過剰な映像が豪華絢爛と続いていく。陰鬱とした異国情緒爆発で、欧米人は歓喜して、この映画を受け入れるだろう。

 聖書や孔子などを引用して語られる存在論は陳腐の一語。高度に電脳化が進み、意識さえネットワーク化され、人間、義体(ゴースト)、アンドロイド、ロボットが存在する世界における自分さがし、アイデンティティをめぐる物語、しかも、その低レヴェルな繰り言にすぎない。「意識」と「存在」について語るのならば、同じ映画として「ソラリス」(もちろん、タルコフスキー版)のほうが圧倒的に優れている。


 士郎正宗が発想した「義体(ゴースト)」という存在概念からは、いろいろな可能性を読みとることができるが、押井守にとって、それらは「様々なる意匠」にしかならなかった。手に入れた宝箱を開けてみたら、そのあまりの眩さに動転してたじろいでいるのかもしれないが、あきらかに「義体(ゴースト)」の本質を取り逃がしている。

 押井守は士郎正宗ほど「義体(ゴースト)」を信じていないのだろう。それでなければ、あれほど「義体(ゴースト)」をめぐって語る必要はないはずだ。

 一般公開後、ありとあらゆるメディアがこの映画を取り上げ、識者・論者が語るだろう。そこでは、上記したようなことがらについて、微に細に、綿密に多岐に分析されるだろうが、そのメディア、識者・論者たちが語るほどの内容を、この映画は内在させていない。それは、ここのこの文章も含め、メディア、識者・論者たちの問題意識がそう語らせているのであって、「イノセンス」自体の力ではない。

 言葉をかえよう。「イノセンス」を触媒として、様々な言説が巷を賑わすだろう(この一文も、そのひとつだ)。それだけの素材が「イノセンス」には揃っている。だが、それらの言説と「イノセンス」は、じつは無関係なのだ。

なんてことだ!

 上記のように、映画を、表現方法(映像)と表現目的(テーマ)とに分けて語ることは、それこそ、映画の本質を取り逃がす行為である、という指摘があるかしれない。まちがいなく正しい指摘だ。

 しかし、「イノセンス」が単に触媒の働きしかしないのだとしたら、ほかにどのような方法論があるというのか。実体のない「意識」や「義体(ゴースト)」について語ることの困難さを「イノセンス」自身が体現してみせているように、触媒でしかない映画について語ることの困難さをわたしたちは感じなくてはならない。触媒は働きでしか語り得ない。

 その意味で、取り逃がす行為そのものが、きわめて「イノセンス」的ふるまいなのだ。

 蛇足。

 竹中直人はここでも便利に使われていた。最近の日本映画で、力のいる脇役には、いつも竹中直人が起用されているような気がしてならない。他に役者はおらんのか?

評点5.5(意外に高得点?)
                        了