02年10月31日 拉致事件の後には
クアラルンプールで行われた日朝国交正常化交渉で、日本側は死亡と伝えられた8人の情報について100項目以上の疑問点をぶつけたという。疑問点が100項目を越えているというのもある意味凄いが、8人死亡の報道があった時に、いち早く生存説を唱えたのが李英和関西大学助教授(9月20日の項参照)だった。李英和助教授は、91年に北朝鮮に留学して北朝鮮の絶望的状況を身をもって知り、92年には早くも人道的食糧支援運動を開始。ところが、この時には朝鮮総連が、「食糧事情は決して悪くない」とし、食糧事情の悪化をデマと決めつけて受け取りを拒否。現在の臆面もなく食糧支援を要請する北朝鮮(援助食糧の分配を、労働党による独裁支配の強化の手段に逆用している可能性が高い)の現状を考えるとこれだけで唖然としてしまう。そのため93年にはついに、(RENK)」を組織し、以後、数々の妨害を乗り越えて北朝鮮の労働党政権打倒と民衆救済のための活動を続けてきた。その李英和助教授が訴えてきたのが、1960年代から70年代にかけて北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝する朝鮮総連の「帰国事業」を信じて北朝鮮にわたった10万人近くの在日朝鮮人と6千人と呼ばれる日本人家族が、一部の例外を除いて敵性分子として北朝鮮で凄まじい人権抑圧と迫害にあい、あまつさえ、日本に残った親戚に対する人質としての役割を負わされてきた問題の解決である。北朝鮮は、「拉致家族」の帰国問題で、残された子供たちを露骨に人質として活用しようとしている。同様な手法は、実は「帰国者」に関しても用いられてきたものである。
数十名の拉致家族問題の解決の後には、数千人の「帰国者日本人家族問題」が、そして家族を含めて20万人以上と言われる「在日朝鮮人帰国者問題」があり、さらには労働党独裁政権の下で飢餓に苦しむ2000万人以上の北朝鮮民衆の救済問題があるのだ。
02年10月30日 温泉につかりたい・・・
河合塾の授業が、リフレッシュ期間ということで、10月31日から11月4日までお休み。さらに今年度山内は月曜と木金と週3日出講なので、前後も休みが続き、なんと10月29日から11月6日まで9日間連続で出講無し。やったね!と思ったら、直前講習のテキストの最終〆切と、問題集の校正の〆切と、模試の採点基準作成の〆切が、全てこの期間に集中してやんの。をいをい。そういうわけで本日も朝からパソコンに向かっていたのだけど、午後3時頃、煮詰まってきたので、そうだ、久しぶりに近所の公共入浴施設に行こう、と思い立って行ってみたらば、保守点検のため臨時休業しますとの貼り紙が。
02年10月29日 引っ越し予定
突然ですが引っ越すことにしました。羽村市もけっこう気に入っていたんだけど、日替わりで首都圏各地に分散する校舎に出講するための拠点としては、いささか便が悪い。引越先としては府中市の分倍河原付近を予定。この一ヶ月は新居探しその他の準備と、直前講習の原稿の〆切が重なって公私共にパンク状態となり、このホームページの更新もままならず、来ていただいた方にはご迷惑をおかけしました。
02年10月2日 「こんなに困った国」北朝鮮を再認識
昼食時にたまたまTVをつけて、北朝鮮から帰国した調査団の報告と、拉致被害者家族の会見に釘付けになる。「死んだ」とされる人の死因が不自然なものばかり、これはまあ、予想していた。でも、「死」を証明する物的証拠が何も出てこないことには唖然。少なくとも何人か、ひょっとすると全員の「生存」の可能性が一気に高まったと思う。追い込まれた北朝鮮にそんな姑息な工作をする余裕があるのか、と疑っていた自分が甘かった。どこまでも姑息なことをするのが、かの国であった。