司馬遷(前145頃-前86)
「累卵」「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」「禍福はあざなえる縄のごとし」「曲学阿世」「先んずれば人を制す」「死命を制す」「四面楚歌」「雌雄を決す」「酒池肉林」「敗軍の将は兵を語らず」「日暮れて道遠し」「百発百中」「傍若無人」「満を持す」「命は天にあり」以上全て『史記』出自の故事成語である。いかに『史記』が古来より、人々に愛されてきたかがわかる。そういえばペンネームを司馬遼太郎とした日本人作家もいたっけか。以下、その司馬遼太郎とよく対比される山田風太郎の『人間臨終図鑑』より引用
中国の黄帝時代から前漢の武帝までの通史を、竹簡木簡による百三十巻の大著『史記』としてはじめて書いた漢帝室の御用記録官司馬遷は、この仕事にとりかかってから五年目に運命の大悲劇を迎えた。彼の仕える武帝は、時あたかも北方匈奴を討伐すべく将軍李広利(大宛遠征による汗血馬獲得で出題されることがある)の大軍をさしむけていたが、その一将勇猛無比の李陵は、突出してはるか敵の本拠地をつこうとして逆に全滅状態となり、李陵もまた捕虜となった。この敗報に、漢廷あげて李陵の失敗を責める中に、司馬遷はあえて李陵を弁護した。李陵は彼の親友だったのである。それは同時に大将李広利を非難することになり、李広利は武帝の寵妃の兄であったから武帝の怒りを買い彼は宮刑(男根切断)を受ける羽目になった。彼が四十六歳の時である。司馬遷はこの死以上の屈辱に耐えて生き抜いた。その目的はただ一つ、彼がとりかかっていまなお未完の『史記』を書き続けるためであった。男根を失った彼は五十五歳のころ、ついに『史記』を完成し、宦官としての余生を五十九歳で閉じた。