出題年:2005年
出題校:一橋大学
問題文

次の文章Aは,インドの民族主義運動指導者の『自叙伝』から抜粋した19世紀末アフリカ南部における経験の記述,Bは同時期に変法運動で活躍した中国人の海外における経験の記述とその解説である。これらを読み,また,表1〜3も参照して,下記の問いに答えなさい。
A
「『あなたは,本当にホテルに泊まれると思ったのですか?』と彼(ヨハネスバーグで事業を行っている知人)は言った。私は尋ねた。『どうして,いけないのですか?』彼は言った。『ここに二,三日おられれば,お分かりになるでしょう。私どもがこんな国に来て生活しているのは,ただ金もうけのためです。侮辱をこらえるぐらい平気です。ですから,ここにいられるのです。』こう言ってから,彼は,インド人が南アフリカでなめている困苦,辛さの数々を物語ってくれた。
彼ら(南アフリカにいるインド人)の中には,労働者の境遇から身を起こして,土地や家屋の所有者になりあがる者が多数あった。彼らに続いて,インドから商人がやって来て,商業を営みながら定住した。……これには,白人の商人があわてた。
(南アフリカにおけるインド人の権利を守るという目的を達成するため)私たちは常設的な大衆組織を持とう,ということを決定した。こうして,……インド人会議が誕生した。この会議には,南アフリカ生まれのインド人や会社事務員の階層は会員として参加してきたが,不熟練賃金労働者,年季契約農業労働者は,まだ枠外に留まっていた。……彼らには,基金を寄付したり,入会したりするなどして,会に所属する余裕などあろうはずがなかった。
 なおなし遂げていないことが一つあった。それは,インド人移民を,祖国に対する義務に気づかせることであった。」
(蝋山芳郎訳に基づく。)
B.「この三つの業種(靴・タバコ・ほうきの製造業)は以前はとても盛んで,出資者も同胞で,これらで財をなした同胞の商人も少なくなかった。だがのちに労働組合がそれをひどく妬み,あれこれ法律を作っては圧迫した。たとえばルソン産の葉巻タバコは政府の許可がないと販売できず,わが同胞労働者の製造したタバコを政府は認可しない,というのがその例である。こうしたことはもともと国際ルールに大いにもとるところだ。……強権というほかない。」
 この文章は梁啓超が清朝からの弾圧にあって亡命中,1903年にカナダ・アメリカの諸都市を回って記した紀行文『新大陸遊記』から,サンフランシスコでの「中国人の営業自由の制約」について紹介した部分の抜粋である。同じく亡命した康有為が東南アジアで同胞を結集し,支援を要請するために保皇会を組織しており,梁啓超のこの旅は,保皇会分会創設のためでもあった。また,ほとんど同時期に,早くから亡命生活を送った[ ア ]も,中国が列強からの侵略の危機にさらされているのは,「中国が自立できないためであり,中国が自立できないと,世界平和は保てない」として,在外同胞の支援を求めて回った。1905年に[ ア ]は東京において中国同盟会を結成し,東南アジアでの分会結成を目指した。

〔問い〕インド人と中国人が大量に海外に移動し,海外で生活の基盤を築き始めたのは,表1,2から理解されるように,19世紀中葉以降のことであった。この大量移動は,いかなる歴史的状況の下で起こったのか,さらに,それらの人々がそれぞれの出身国の国内政治といかなる関連を持ったのか,また,その大量移動が移住先の社会に現在いかなる影響を与えているのかを,述べなさい。解答にあたっては,インドと中国の双方にふれ(その字数の割合は問わない),また,Aの『自叙伝』の著者,およびBの文章における空欄[ ア ]がそれぞれ誰であるかも述べなさい。



解答例

19世紀前半から黒人奴隷貿易が禁止される一方,東南アジアやアフリカで植民地支配が拡大してプランテーションや鉱山の労働力が求められ,合衆国でもゴールドラッシュや大陸横断鉄道建設で安価な労働力の需要が高まった。中国はアヘン戦争以後社会が混乱し,インドはシパーヒーの乱後のイギリス支配の強化と鉄道建設によって,商品作物栽培の強制が拡大し,課税負担が増大したため農村が荒廃した。このため両地域から困窮化した人々が苦力として移民した。彼らは当初最底辺の労働者であったが,出身別の集団を維持し,相互扶助を行って社会的上昇を果たした。その結果各地に複合社会が出現し,白人や現地人との対立を招いた。彼らは出身国政府の保護を期待し,その強化のための改革の必要を認識して,インドではAのガンディーが南アフリカの体験に基づき展開した非暴力・不服従運動を,中国では利権回収運動やアの孫文の革命運動を支援するようになった。