第1話 あいさつ代わりに『エレクトラ』(1)
 
 ここは、音楽に関する話題を中心に、筆者が思いつくまま書くあれこれに、寛大な読者のお時間をすこしばかり頂戴してお付き合い願うというページだ。ただし、「音楽」といっても、17世紀後半から20世紀というたかだか400年たらずの間に、主にヨーロッパという地域で盛んであった極めて限定された「音楽」である。なに?「回りくどく言ってるけど『クラシック音楽』と言いたいんだろ」とおっしゃるか?その通りです。
 
 音楽に関するHPが星の数ほどある中でさらに我が雑文を加えるという行為は、八重洲ブックセンターや丸善や紀伊国屋の巨大な書棚に自費出版の本をこっそりつっこむようなもの(それ以下かもしれん)で、世の中のためにどれほどの意味があるかを考えるととても寂しい・・・・・・が、電気をわずかに消費しているものの、紙やインクは使っておらず、少なくとも地球環境に与える悪影響は無視できるほど極めて小さいから、と勘弁してもらい、やっぱり書く。目標は、検索をかけて間違って来てしまった人がとりあえず最後まで読んでくれること、かな。
 
 お題は、基本的にN響の定期から頂くことにしました。演奏評ではありません。あくまでもお題を頂戴するだけです。何故、N響の定期か。理由はいろいろあるが、まずとにかく、筆者が定期的に行ってるから。前口上、終了。
 
 さてさて、先日、サラリーマンである筆者の職場で忘年会があり、レク担当の筆者は「今年一番ラッキーだったこと」をお題にレクを企画した。そのとき自分にとっての一番をあれこれ考えてみたら、『エレクトラ』を生で聴けたこと(03/6/12,14)、という結論になった。そんなこと職場で言っても、「『エレクトラ』を生で聴いたのはウィーンでアバドがやった時以来かしら(筆者の後ろの席のご婦人が本当におっしゃっていた)」という人がいるわけがなく、「ああ、あのデュトアの最後の定期ですか。最後に『エレクトラ』をやるなんて憎いですねえ」とか「私も行きたかったんですけど切符が手に入らなかったんですよね。えっ、二日とも行ったんですか!ずるいなあ」とか「会場に諏訪内晶子も来てたんですってねえ。見たかったなあ」などという会話で場が盛り上がる・・・・・・ということはちょっと期待できない。だから、みんなと一年に一度の大仕事のために休日出勤した途中で、自分だけ職場を抜け出していそいそNHKホールに駆けつけ、生まれて初めてスタンディングオベーション(略して「立ちション」とつれあいに言ったら通じなかった)やら、生まれて2回目の「ブラボー」を叫ぶ(1回目は友達が出るアマオケでやったサクラ)やら、大興奮で騒ぎまくった挙げ句、何事もなかった顔で戻ってきて仕事を続けたことは、もちろん黙っていた。
 
 実は、今年の最大の収穫は、『エレクトラ』を生で聴けたこともあるが、同時に『エレクトラ』を勉強できたことでもある。その昔、音楽家を志して挫折した筆者は、いまN響の定期を自分にとってのせめてもの「音楽のレッスン」と位置づけている。だからプログラムに上った曲は「課題曲」として可能な限りスコアをよく読んで勉強する。人生、残された時間は(やりたいことの量に比べれば)とっても短いし、食うための仕事をもつ身としては、あれもこれも勉強する余裕はない。どのくらい勉強するかといえば、自分で振れるぐらい、というのが目標だ・・・・・・、・・・・・・あくまでも目標だ。
 
 『エレクトラ』に初めて正面から向かい合ってみて改めて思ったのだが、この曲につきまとう、「不協和音の固まり」、「調性の世界を限界まで広げた難解な曲」というイメージは、果たして妥当だろうか?確かに、それはこの曲のもっとも特徴的な点ではあるが、ほとんどそのことしか指摘しないのは、徒に素直なファンを遠ざけることにならないか。少なくともこの曲の一面しか言っていない評価だと思う。筆者にとっては『バラの騎士』、『ティル』などと同じように親しめる(分かる)曲だ(『アルペンシンフォニー』などよりはるかに聴きやすい)。高邁な思想をお持ちの方々には「軽々しく、分かる、などと言うものではない」とご不満の向きもあるだろうが、「分かる」、「分からない」は「好きになる」か「好きになれないか」の違い、というのがちょっとだけ専門的に音楽を学んだ筆者の結論だ。
 
 「お前もいばってるだけじゃあないか」とおっしゃるか?ハハハ。『エレクトラ』は難しい、という方にお聞きしたい。最後まで聴いてみられたか?実は、筆者の経験では、『エレクトラ』に限らず、「難しい」と言う人には本の知識だけで自分では聴いたことがない人がとても多い。20年前ならともかく、今なら3,000円ぐらいで『エレクトラ』のCDは手に入る。食わず嫌いの人にはだまされたと思って聴いてみられることを強くお薦めする(ただし、もともと『ドン・ファン』やヴァーグナーが嫌いな人は本当にだまされるので除く)。
 
 こういう聴き方を試してみて頂きたい。なに、簡単。最後から聴くのだ。と、いってもレコードを逆回しするのではない。えっ、「レコード」知らない?もうこのジョークも成立しないのか・・・・・・CDで結構。『エレクトラ』のCDは2枚組になっていて、それぞれ、最低でも4つぐらいのトラックが切ってあるはず。その2枚目のさらに最後のトラックから聴いてごらんなさい。仮に4つあるとして、まずNo.4を繰り返し聴いて、ある程度覚えたら次にN0.3とNo.4を続けて。また、ある程度覚えたらNo.2〜、No.1〜、と前に延ばしていく・・・・・・「邪道」である。こういうやり方が感覚的になじめない人もいらっしゃるだろう。小説を最後の章から読むようなものだから。しかし、音楽というのは、いつも繰り返し聴いているうちに好きになる、というようにはいかないものだ。時には、攻略法を考えて勉強のつもりで取り組まなければ近づけないこともある。泥臭いようだが、そうやって頑張っているうちに、いつしか自分にとってかけがえがない曲と思えるほど好きになる、ということはよくあるものだ。長くてとっつきにくい曲、特にオペラを効率的に覚えるためにはこの手が良い。スコアをブロックで切って読む方法を併用すればさらに効果的。長い曲でも短い時間で頭に入る。
 
 さっき『エレクトラ』は親しみやすい、と書いたが、前半はだめ。難しい。退屈。正直に最初から聞き始めると、CDを2枚目に換える前に必ずトイレに立って、コーヒーを淹れようとお湯を沸かして、沸くのを待っている間に新聞をちらちら見たりして・・・・・・結局2枚目を聴くのを忘れる(忘れたことにする)。だから、前に「最後まで聴いてみられたか」と問うたのだ。筆者も、シュトラウスのいう「心理のポリフォニー」をわくわくどきどきしながら聴けるようになるまで時間がかかった。大抵の方は筆者より理解が早いのかもしれないが、それでも最初は取っつきやすいところから聴き始めるのは鉄則。しかし、1枚目のCDには聴いていて楽しい部分はほとんどない。「ほらみろ。分かったなんて言ってるくせに。最初のエレクトラのモノローグなんか、とってもドラマティックで素晴らしいじゃあないかあ、ぷんぷん。」という声が聞こえてきた。確かに、エレクトラのモノローグにしろ母親(役名は舌をかみそうで書けない)が登場して二人がからむ場面にしろ、性格描写や情景をことごとく音にしている凄さはすぐに聴き取れる。けれども、音楽として聴きにくいと思うのは普通の感覚だろう。じゃあ前半は聴かなくていいのか、というとこれもまた別の話。前菜あってのメインディッシュ、殺人あってのコロンボ、1枚目があってこその2枚目なのだ。後半、そう、オレスト(これは舌をかまないで書ける)が出てくるところから後は、息をする間もないほどに劇的、感動的な音楽が続いていく。後半の50分を感動的に聴くために、前半の50分、奥歯と耳に力をいれて辛抱するのである。(つづく)