第13回 華氏911
『華氏 911』はアメリカのブッシュ大統領の再選を阻むために制作されたという、きわめて政治的なドキュメンタリー映画だが、監督のマイケル・ムーアの仕事は、米アカデミー賞を受賞した前作『ボウリング・フォー・コロンバイン』やTVシリーズ『恐るべき真実』を見ればわかるように、常に政治的で挑発的である(そして、それ以上にエンターティメントとして優れている)。
『華氏911』は『ボウリング〜』ほどの物語性や緊迫感はなく『恐るべき〜』ほどのユーモアも感じられない。ムーア節は健在だが、全体として淡々として進行していく。むろん、これはM・ムーアの意図的な方法であり、声高にブッシュ大統領の批判を叫ぶのではなく、努めて客観的に構成しているように見せることによって、映画の真実性を高めようとするものだ。
この映画で語られていることが事実―たとえば、ブッシュ一族とサウジ王族の繋がりや、アメリカのずさんな沿岸警備などである―かどうかは問題ではない。映画において、常に問われなければならないのは、映像の真実性である。
映像の真実性とは、9・11同時多発テロの第一報を聞いたとき呆け続けたブッシュの顔であり、敵を銃撃するときにはへヴィ・メタルをかけると楽しげに語る兵士の顔である。
ブッシュ政権の政策が、並列的に批評されていくこの映画のラスト・シーンは、イラク戦争で息子を亡くした母親が厳重警備のホワイトハウスを訪れる場面である。母親は自分の息子がなぜイラクで死ななくてはならなかったのか、その理由を―原因ではなく―知りたくてワシントンにやって来るが、ホワイトハウスを目前に眺めながら涙するだけだ。
この母親に、あなたの息子はイラクの自由のために、母国アメリカと世界の平和のために、貴い犠牲になったのだと言ったとしても、彼女は納得しないだろう。死は常に個別的で孤独なもので、そのような大義名分は、死のそのような真実性を隠蔽する以外のなにものでもないからだ。
誰のどのような死であれ―たとえ無名兵士の死でも―、死は個別的で孤独であり暴力的である。だからこそ、生者は死に何かしらの意味づけをしようとする。お国のためでも、先祖のたたりでも、それはなんでも構わない。死と向かいあうということは辛い作業だから、生者はその空白を埋めようとするのだ。
だが、他人がそれにつけこんではならない。
第一次、第二次という世界大戦において、世界は総力戦や原爆という大量死(=無意味な死)を経験し、死が統計化されるようになったといわれる。その説にしたがえば、イラクで息子を亡くした母親は、そのように統計化されてしまう死というものに対する異議申立をしているということになるのだろうが、死が個別的で孤独であるということは、その異議申立の第一の前提であり、かの母親はそれを「平和」とか「自由」とかいう大義名分によって隠蔽されることを拒否しているのだ。
この個別的で孤独的な“死”というものに思いの至らないものは、愚か者である。
ところで、ブッシュが大統領でなくなればアメリカと世界がこれ以上悪くなることはないとしても、ケリーが大統領になればアメリカと世界がこれよりも良くなるかといえば、そんなことはないとすぐさま断言できてしまうことが、アメリカと世界の最大の不幸であろうか。
◎評点……6.0 個人的には、サウジ大使館付近での撮影中の職務質問シーンやTVドラマ『ラスト・アメリカンヒーロー』のテーマやR.E.M.の曲なんかを使う音楽のセンスが好き。