イスラム世界における軍事制度とその影響
イスラムにおいては初期の軍隊の担い手はアラブ人イスラム教徒であった。ムハンマドによって統一されたアラビア半島のアラブ人は,正統カリフ時代にジハード(聖戦)を唱えて拡大運動を開始した。彼らは戦士として登録され,アターと呼ばれた給与支払い制度に基づいて給与を受け取る一方,免税特権を保持していた。しかしそのようなアラブ人に対するマワーリー(非アラブ人イスラム教徒)の不満を背景に成立したアッバース朝ではアラブ人の免税特権が失われた。
アッバース朝ではマムルーク軍団が編成され,イスラム世界に普及していった。マムルークは黒人奴隷兵に対して白人奴隷兵を指す呼称である。イスラム勢力の中央アジア進出によって多くのトルコ人がマムルークとしてイスラム世界にもたらされたことで,マムルーク軍団の編成が可能となった。トルコ系遊牧民は騎馬技術に優れて騎兵としての能力が高く,奴隷として主君に購入されて後,奴隷身分から解放されることで,主君に対して篤い忠誠心を持つことが多かった。また同じマムルークに対する仲間意識も強かったので,強力な軍事力を発揮してイスラム世界で重要な役割を果たすようになった。奴隷身分から解放されたマムルークの中には,軍団司令官や王朝開祖となる者も出現した。
一方アッバース朝の弱体化の過程で,給与支払いのアター制の実施が困難になってくると,ブワイフ朝においてイクター制が開始された。ブワイフ朝は946年にバグダードに入城し,アッバース朝から実権を奪ったイラン系シーア派の軍事政権である。イクター制は,軍人などに分与地(イクター)での土地徴税権を与える代わりに軍役などの義務を課す制度で,1055年にブワイフ朝を打倒したトルコ系スンニ派のセルジューク朝において整備され,以降のイスラム世界において広く実施された。オスマン帝国においてもイクター制は,シパーヒーと呼ばれた騎士にティマール地という分与地の徴税権を与えるティマール制として継承されている。
オスマン帝国ではシパーヒーによる騎馬軍団とは別に常備歩兵軍団であるイェニチェリが存在した。イェニチェリは,キリスト教徒の子弟を徴用し,改宗させて登用するデウシルメ制によって編成された。火砲を用いた集団歩兵戦術を得意とし,14世紀から16世紀にかけてしばしばヨーロッパの軍隊を圧倒した。しかしオスマン帝国の衰退期には,帝位継承争いに介入して宮廷騒動の原因となり,また軍事制度を始めとする近代化の改革に反対したため,1826年にマフムト2世によって全廃されている。
ヨーロッパにおける軍事制度とその影響
古典古代の時代で重要なのはギリシア,ローマの身分闘争である。貴族に対して平民が参政権を要求し,身分闘争が展開した背景には,重装歩兵として軍に参加した平民の実力向上があった。そして平民が参政権を獲得していく過程でギリシア・ローマの軍隊は,市民の権利として参政権を認める代わりに,兵役を市民の義務とし,市民皆兵を原則とする市民軍の性格を強めていった。アテネの民主政やローマの共和政では,軍役の義務と市民としての権利が対応関係にあり,市民意識に裏打ちされた戦意の高い軍隊の存在が,ペルシア戦争時のアテネや,ポエニ戦争を戦い抜いた時期のローマの強さを支えていたのである。
しかしペロポネソス戦争後のギリシアでは,前4世紀の戦乱期に貨幣経済の浸透による貧富の格差の拡大と傭兵使用の流行によって市民皆兵の原則が崩壊し,ギリシア世界の根本をなしていたポリス共同体の変質を促して,ギリシアそのものの衰退をもたらしてしまう。ローマにおいても,ポエニ戦争の従軍で,重装歩兵たる中小農民が長年の従軍で疲弊したところへ,属州からの安価な穀物の流入や奴隷を使用した有力者によるラティフンディア経営の進展が重なり,中小農民が没落して無産市民化することで,重装歩兵市民軍が解体してしまう事態が発生した。
グラックス兄弟の改革は,リキニウス=セクスティウス法の公有地の占有制限を復活することで中小農民層を再建し,軍事力の弱体化を克服しようとしたものであったが,有力者の反対によって挫折し,結局ローマの軍事力再建は,マリウスによる傭兵制の導入で果たされた。しかし,市民の義務としての軍隊から,給料支払いの傭兵への切り替えによって,軍の忠誠の対象はローマそのものから,自分達に給料をもたらしてくれる将軍へと代わった。そしてマリウスが自らに忠誠を誓う軍の力を背景に政権の座についたことを皮切りに,ローマの政局は私兵化した軍を用いて反乱鎮圧や領土拡大に功績を競い,民衆の支持を得ることで権力に接近しようとした将軍たちによって左右されるようになり,元老院を中心とする共和政の伝統は動揺した。平民派マリウスと閥族派スラの党争から,2回の三頭政治を経て,ついにローマはアウグストゥスによる帝政へと移行するのである。
中世においては,封建制のもとで,軍は騎士階級である封建領主層によって支えられていた。封建領主は主君から領土の支配権が認められた代わりに,軍役の義務を負い,主君から召集されると,騎士として従軍したのである。ところが,14世紀の封建制の危機の時代には,貨幣経済の普及などで封建領主層の没落が進む一方で,黒死病の流行が農民の地位向上をもたらす現象が見られた。さらに困窮化した領主層の封建反動と呼ばれる締め付けに対しては,イギリスにおけるワット=タイラーの乱(1381)や,フランスにおけるジャックリーの乱(1358)のような農民一揆が発生した。ジャックリーの乱の直接の原因は百年戦争初期のフランスの敗戦が,農民に対する重税をもたらしたことへの反発である。指導者ギョーム=カールが処刑されることで乱は敗北したが,ワット=タイラーの死によって敗北したワット=タイラーの乱と同じく,乱後再発防止のために農民に対する譲歩がなされ,農民の地位向上につながっている。
また封建領主層没落の要因としては,新技術の導入による戦法の変化によって騎馬戦術の有効性が失われ,騎士階級である封建領主層の役割が低下し,かわって農民層出身者による集団歩兵戦術の重要性が増したことで,「戦う階級」として正当化されていた騎士身分の特権の根源が揺らいでしまったことも挙げられる。
百年戦争の初期,エドワード黒太子に率いられたイギリスの勝利を支えたのは,独立自営農民であるヨーマンによって編成された長弓隊であり,このような傾向は14世紀の大砲,15世紀末の小銃などの火砲の使用によって次第に顕著になっていく。同時期にいち早く火砲を用いた集団歩兵戦術を採用したオスマン帝国のイェニチェリ部隊が,ヨーロッパの軍隊に勝利を続けたことも影響した可能性がある。そして17世紀の百年戦争中にグスタフ=アドルフが率いたスウェーデン軍が火砲の効果的使用によって活躍したことが,騎馬戦術に対する火砲を用いた集団歩兵戦術の優位を決定的なものにした。
16世紀初頭,結婚政策によって獲得した広大な領土を背景に,ハプスブルク家のカール5世は今一度皇帝の権威を復興させ,皇帝と教皇によって統轄されるキリスト教共同体としての西欧世界を再建してオスマン帝国に対抗しようという夢を抱いた。しかし,カール5世の中世的帝国復興の夢は,国王の下で集権化を進めつつあったフランスのフランソワ1世の激しい反発を呼び,フランスと神聖ローマ帝国間のイタリア戦争を激化させた。そしてこの時,ハプスブルク家のヨーロッパ支配を恐れるイギリスや教皇,そしてオスマン帝国もフランスに加担したことで,カール5世の壮大な夢は破産することになる。以降,皇帝や教皇の権威はますます低下し,王権神授説で武装して主権を主張した国王たちが領域内の諸団体に対する統制を強めていく中で,西欧世界は主権を持った国家が分立する主権国家体制へと移行し,三十年戦争のウェストファリア条約でドイツの領邦国家の主権が承認されて神聖ローマ帝国が有名無実化したことで,主権国家体制が確立した。またイタリア戦争を通じて複雑な外交を繰り広げた各国は勢力均衡を原則に外交官を常駐させるようになり,主権国家体制における外交のあり方も,確立していくのである。
さて,当初主権国家における「主権」が,まず何よりも皇帝や教皇の制約を受けず国王が自由に戦争する権利として主張されたことに見られるように,主権国家体制が確立して国家が主役となった近世は,国家間の戦争が絶え間なく続いた戦国の時代であり,主権国家体制の下での国家は何よりも戦争を前提として存在していた。国家が「戦争機械」としての性格を強めていくこのような状況の中で,国王の軍隊は封建制に基づく騎士の軍隊から,臨時雇いの傭兵の活用を経て,常備軍へと移行していくのである。
絶対王政の下で,自立的であった中世以来の諸団体は国王の統制の下に置かれるようになった。しかし中世以来の身分制度や諸団体は解体されず,国王の統制は諸団体に属する個人まではなかなか及ばなかった。こうした中で国家をめぐる議論が盛んになり,社会契約説が自然権を持つ個人からなる国家という思想を提示し,それがアメリカ合衆国の成立で実現すると,ヨーロッパ大陸ではフランス革命が法の下で平等な市民(公民)を構成員とする国民国家の実現を目指した。そのためには中世的な諸団体を解体して個人を国民として国家に直結させる必要があり,フランス革命では封建制の撤廃やギルドの解体が行われていった。そして革命フランスと君主主権の原則に立つ周辺諸国との間で革命戦争が勃発した時,フランスではまず義勇軍の募集が行われ,ついで徴兵制が施行されるにいたる。
この革命戦争を通じて,「戦争機械」としては個人を直接掌握する国民国家の方が,絶対王政国家よりも強力であることが示されていくのである。
ナポレオンに率いられ,オーストリアやプロイセンなどドイツ諸邦を次々に打ち破った1806年時点のフランス軍は,ナポレオン法典によって国民としての諸権利を保障され,国民主義によって愛国心を植え付けられた軍隊であり,軍隊内では原則として出身階層にかかわらず,戦功と能力によって出世することができた。そこでは古典古代の市民軍の姿が再現されて戦意も高かった。それに対しプロイセン軍は将校は土地貴族のユンカーに限定され,一般兵士の多くはグーツヘルシャフト(農場領主制)下の農民であり,軍隊内にも絶対王政下の身分制度が持ち込まれて戦意の点でフランス軍に劣った。それがフランス軍に対する惨敗の要因となった。そのため敗戦後のプロイセンでは,ナポレオン軍占領下のベルリンにおけるフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』の連続講演での国民意識の発揚や,シュタインとハルデンベルクの改革での農奴制廃止や教育・軍事改革など,フランス軍に対抗する軍隊を作り出すために,フランス革命が提示した自由主義と国民主義(ナショナリズム)の原則をある程度導入した上からの国民国家形成の試みがなされていく。
そして19世紀はナショナリズムの思想が普及し,拡大していく世紀になった。特にウィーン体制が崩壊して後の19世紀後半には,ナショナリズムが高揚し,各国はそれぞれの歴史的背景に基づいて,国民国家の形成に努力した。1861年のイタリア王国成立,同年のロシアの農奴解放令発布,同じくアメリカ合衆国における南北戦争の勃発,1867年のオーストリア=ハンガリー二重帝国の成立,1868年日本の明治維新,1871年のドイツ帝国成立,これらは全て国民国家形成の文脈で理解することが出来る。しかし,帝国主義の時代になって,列強による植民地拡大競争が激化すると,ナショナリズムは,他国との競争意識の中で次第に自民族至上主義的な色彩を帯び,軍国主義とも結びついていく。第一次世界大戦は,そのように19世紀を通じて成長したナショナリズム(国民主義・民族主義)と国民国家同士が激突した戦争であり,そこで戦った軍隊は,フランス革命によって作り出された国家への帰属意識を戦闘の原動力とする軍隊であった。そして戦争は長期化に伴って,軍事力だけでなく,国家と国民全体の物資と人員を動員する総力戦へと展開していった。それは戦争の終結を困難とし,戦争の惨禍をかつてない大規模なものとしたが,一方で戦争への国民全体の参加を促すために参政権の拡大が行われ,出兵した男性に代わって様々な職業分野に女性が労働力として進出して女性の社会参加のきっかけともなった。そして,多くの異民族を抱え,また中世以来の身分制社会の伝統がより強く存続して国民国家としての統合力が弱かったロシア帝国やオーストリア帝国,そしてオスマン帝国は,第一次世界大戦を通じて解体に向かい,第一次世界大戦後に,民族自決原則に基づく多くの新興国を生み出すに到るのである。
一方での下での戦争が,悲惨な消耗戦となった事実から,ヨーロッパの統合によって戦争を回避しようとするパン=ヨーロッパ主義の主張が,日本人を母とするオーストリア貴族,クーデンホフカレルギーによって唱えられ,ロカルノ体制を主導したフランスの外相ブリアンなどの賛同を得るに到った。パン=ヨーロッパ主義の運動は,世界恐慌を機にイギリスが開始したブロック経済政策など,各国が自国の利害を最優先する過程で沈滞を余儀なくされたが,第二次世界大戦が再び悲惨な総力戦となり,何よりも戦場となった西欧諸国に深刻な打撃をもたらす一方で,アメリカ合衆国とソヴィエト連邦の覇権が確立すると再び注目されるようになり,ECSCに始まるヨーロッパ統合の試みに結実することになる。
ヨーロッパに始まるは,戦争を前提に発展してきた。軍隊が民主主義の浸透に果たした役割も無視することは出来ない。しかし,第一次世界大戦と第二次世界大戦の「20世紀の三十年戦争」は、逆に主権国家体制と国民国家の解体を促すに到る。
そこに壮大な歴史の歩みを見ることが出来ないだろうか。