孔子(前551頃-前479)
魯の国の年代記『春秋』を著して春秋時代の言葉を残し、死後弟子が編纂した『論語』で知られ、後世聖人としておおいに尊敬されたが、そのー生は不遇の一生である。50を過ぎて内紛により官を辞し、自分の理想を受け入れてくれる名君を求めて、弟子を連れて諸国を放浪するも、ついにどこからも受け入れられず、70過ぎて故国に帰り、弟子の教育に専念。このあたりはギリシアのプラトンとよく似た境遇である。しかしプラトンは弟子アリストテレスを持ったが、孔子はその最も頼みとし「一を聞いて十を知る」と絶賛した弟子顔回を晩年に失い、「天は我を滅ぼした」と悲嘆しなければならなかった。さらに追い打ちをかけるようにその翌年には最も愛していた弟子子路が衛の国のクーデターに巻き込まれ、殺されてシオカラにされてしまう。孔子について詳しく知りたい人は、マンガでは諸星大二郎の傑作『孔子暗黒伝』、研究者の本では孔子研究を書き換えたと言われる学者白川静の『孔子伝』(中公文庫)がおすすめ。

孟子(前372頃-前289頃)
戦国時代の儒家。仁義孝悌を重んじ、性善説を唱え、王道政治を説いて易姓革命を認めた。孔子と同じく諸国を遊説したが、孔子と同じく用いられず、やはり孔子と同じく晩年は故郷で弟子の教育に専念した。彼の言行を記録した『孟子』は『論語』『中庸』『大学』と共に宋代朱子によって四書とされた。「五十歩百歩」「仰いで天に愧じず」「去るものは追わず、来るものは拒まず」「みずからかえりみて縮くんば千万人といえどもわれ往かん」などが『孟子』出自の言葉である。

荀子(前298頃-前235頃)
戦国時代の儒家。孟子の性善説に対して性悪説を唱え、悪である人間の性を礼によって矯正することを主張して、孔子の教えのうち特に礼を強調した。彼の説は法家への道を開くもので、その門下から韓非や李斯などの代表的法家が出た。

墨子(前480頃-前390頃)
墨家の祖。伝記は不明。『墨子』という書で、その思想が伝えられている。儒家の仁を人為的と批判して兼愛(無差別の愛)・交利(相互扶助)・非攻を説いた。ところでこの非攻は反戦平和主義とよく誤解されているが、専守防衛主義と考えたほうがいい。墨家は戦国時代最強の戦闘集団であり、ろう城戦などの防衛戦争に雇われては活躍していたことが今日明らかになっている。ちなみに酒見賢一がその辺りの事情を『墨攻』に描き、その昔少年サンデーに『青空ショッテイ』というゴルフマンガを描いていた森秀行がマンガ化して小学館漫画賞を受賞した。傑作である。またこの派は庶民・奴隷からも人材を登用する「尚賢」を説き、下層出身者が多かった。

老子(前579頃-前499頃)
字は李耳。孔子の同時代の人とも、戦国時代の人とも言われる。実在を疑う説もある。儒家の思想を批判し、無為自然を説き、儒教と並んで中国の二大思潮となる老荘思想の祖となり、後世道教の祖とされた。また,唐王朝は本来鮮卑系貴族の出自であるが,自らを老子の末裔と称し,漢民族の名門出身に出自を改竄した。そのため,唐では老子を祖と称した道教を帝室が保護することになった。

荘子(前4世紀後半-前3世紀)
老子の思想を受け継ぎ発展させて、自由に遊ぶ真人を理想とした…という従来の説にたいし、実はその思想は孔子の弟子顔回の系譜に連なるものであり、むしろ孟子よりも孔子本来の思想をよく伝えているのであるとの説がある。著作に『荘子』“胡蝶の夢”の話は余りにも有名。

商鞅(?-前338)
法家理論の基礎を確立。秦の孝公に仕えて富国強兵政策を行い、連帯責任制である什伍の制・郡県制などを制定。秦の強国化に貢献した。しかし孝公の死後秦の貴族に憎まれ、自ら制定した極刑車裂きの刑で処刑された。

韓非(?-前234/233)
韓の王族に生まれ、李斯とともに荀子に学び、法家理論の完成者となった。いにしえを尊しとし、周の政治を理想とした儒家に対して、今の世は必ず昔より勝っていると考え、人々は現実の必要に応じて政治改革を行うべきで、必ずしも古代の伝統に従うものではないと主張。世襲の宗族による政治から、君主が任用する役人による中央集権国家建設への改革を説いた。李斯の仕えていた秦に招かれ、秦王政(後始皇帝)に認められて用いられようとしたが、李斯に妬まれ毒殺された。

李斯(?-前210)
韓非と共に荀子に学ぶ。秦王政に仕え、法家思想を実践。秦の中国統一がなると丞相となり、郡県制を施行し、焚書坑儒を実施した。始皇帝の死後宦官超高と計って2世皇帝を擁立し、他の公子・公女を虐殺。また将軍蒙恬を獄死させた。が、後に趙高の術策にはまって罪をとわれ、腰斬の刑で処刑され、その一族も3世代にわたって処刑された。

孫子
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」は、古来兵法書の名著とされる『孫子』の言葉。もっともこの著作は呉王闇閻に仕え、春秋呉を強国にした孫武とその孫の著作があわさったものらしい。したがって本来“孫子”と呼ばれてきた人物も二人いることになる。藤子不二雄のようなものだろうか。横山光輝の『戦国獅子伝』というマンガに重要人物として登場している。

呉子(前440頃-前381頃)
戦国時代中期の人。“孫呉の兵法”と孫子と並び称される兵法家として有名であり、宰相としても実績をあげたが、もともとは孔子の弟子曹子に学んだ人で、孔子の孫弟子にあたる。

蘇泰(?-前317)
戦国時代の縦横家であるが、存在を疑う説もある。鬼谷先生のもとで学び、舌一つで秦に対抗する合従策をといて六国の同盟をまとめ、一時は六国の宰相を兼ねたと言われる。同門の張儀連衡策に破れると、斉に逃れ、そこで暗殺された。

張儀(?-前310)
戦国時代の縦横家蘇泰と鬼谷先生のもとで共に学んだ同門である。楚の国の食客であった時に、宰相の家宝を盗んだ疑いをかけられ、ひどいリンチにあう。その時半死半生となった彼が家人に問うて言った言葉が「俺の舌はまだあるか」であり、この言葉は己の弁舌だけを武器に世の中を動かそうとする縦横家の気概を示したものとして有名である。蘇秦の合従策に対して秦の意を受けて、六国がそれぞれ別々に秦と同盟すべきであるとする連衡策を説き、秦の中国統一への道を開く。しかし反対派に憎まれ、魏に逃れてそこで死んだ。

公孫竜(前320頃-前250頃)
言葉と物との関係を追及し、論理を重視して論理学を展開した名家の代表的人物。名家は詭弁の学に陥ったと非難されるが「白馬非馬論」(白馬は馬にあらず=白い馬は馬ではない)など、そうみられてもしかたのない側面はある。しかし名家はそもそもは社会の秩序維持をめざすものであり、彼も非戦論を説いたことでも有名である。

鄒衍(前305-前240)
天地万物は陰陽二つの性質を持ち、その消長によつて変化する(日・春・南・男などが陽、月・秋・夜・女・北などが陰)とする陰陽説と、万物組成の元素を木・火・土・金・水とする五行説とをまとめ、自然現象から世の中の動き、男女の仲まであらゆることをこの陰陽五行説によって説明。彼の説は占いや呪術とも結びついて後世に多大な影響を与えた。どれほど影響があるかは「陽気」「陰気」という言葉や、曜日の名前を思い浮かべればすぐわかる。

屈原(前343頃-前277頃)
戦国時代末期の楚の王族、政治家、詩人。強大化する秦に対抗するために、政治改革の実施と他の諸国との連合を唱えたが、楚国内の親秦派との政争に敗れて追放。衰えゆく楚の国を憂えながら汨羅江に身を投げて自殺した。憂国の詩人として知られる。流浪生活の間に民の苦しみに触れて、その生活に同情をよせるとともに楚の方言を用い、民間歌謡の形式を取り入れた詩歌の形式を作り出した。彼や彼の弟子の作品を集めた『楚辞』は北方の詩を代表する『詩経』に対して南方の韻文を代表するものである。

司馬遷(前145頃-前86)
「累卵」「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」「禍福はあざなえる縄のごとし」「曲学阿世」「先んずれば人を制す」「死命を制す」「四面楚歌」「雌雄を決す」「酒池肉林」「敗軍の将は兵を語らず」「日暮れて道遠し」「百発百中」「傍若無人」「満を持す」「命は天にあり」以上全て『史記』出自の故事成語である。いかに『史記』が古来より、人々に愛されてきたかがわかる。そういえばペンネームを司馬遼太郎とした日本人作家もいたっけか。以下、その司馬遼太郎とよく対比される山田風太郎の『人間臨終図鑑』より引用
中国の黄帝時代から前漢の武帝までの通史を、竹簡木簡による百三十巻の大著『史記』としてはじめて書いた漢帝室の御用記録官司馬遷は、この仕事にとりかかってから五年目に運命の大悲劇を迎えた。彼の仕える武帝は、時あたかも北方匈奴を討伐すべく将軍李広利大宛遠征による汗血馬獲得で出題されることがある)の大軍をさしむけていたが、その一将勇猛無比の李陵は、突出してはるか敵の本拠地をつこうとして逆に全滅状態となり、李陵もまた捕虜となった。この敗報に、漢廷あげて李陵の失敗を責める中に、司馬遷はあえて李陵を弁護した。李陵は彼の親友だったのである。それは同時に大将李広利を非難することになり、李広利は武帝の寵妃の兄であったから武帝の怒りを買い彼は宮刑(男根切断)を受ける羽目になった。彼が四十六歳の時である。司馬遷はこの死以上の屈辱に耐えて生き抜いた。その目的はただ一つ、彼がとりかかっていまなお未完の『史記』を書き続けるためであった。男根を失った彼は五十五歳のころ、ついに『史記』を完成し、宦官としての余生を五十九歳で閉じた。

董仲舒(前176-前104)
前漢の儒学者で、儒学の経典五経の教授と普及を目的とする五経博士を置くことを武帝に献策し、儒学の官学化に成功。この結果漢以降の王朝で儒学が官学として、社会の指導理念として保護されていくことになるため、その意義は限りなく大きい。個人の思想としては、『春秋』の注釈書のうち『春秋公羊伝』を重視し、『春秋』の記述の中に深い意義を読み取るべきであるとする公羊学派の祖となる。公羊学は清末康有為らによって復活し、清末変法運動の支柱となったことで重要。また陰陽五行説を儒学にとりこんで天の自然現象と人の社会の社会現象は相関関係にあるとする天人相関説を唱えた。著作に『春秋繁露』(青山学院大学で一度出題実績あり)がある。

班固(32-92)
司馬遷の『史記』と並び称され後世の史書の手本となった前漢一代の歴書『漢書』の著者であり、後漢第一と後世称されて『文選』の巻頭を飾った賦の名手であり、なおかつ西域都護としてその名も高い班超の兄でありながら、司馬遷と同じく彼もまた不遇の一生を送った。中傷を受けて官位はすすまず、しかも「国史の改作をしている」との訴えで投獄。弟班超の無実の弁明でこの時は許されたものの、後に将軍實憲の匈奴討伐に従軍したさい、匈奴軍に敗北して責任をとわれて免官。更にその数年後、實憲が宦官に計られて謀反の疑いを受けて自殺すると、巻き込まれてまたもや投獄され『漢書』完成途上で獄死するのである。しかし彼の遺志は博学多才のほまれ高い、妹の女流作家班昭に受け継がれ、父班彪以来の悲願であった『漢書』の完成を見る。

玄(127-200)
後漢の学者。馬融に師事し、仕官をさけて野にあって儒学の古典の研究に生涯をささげ、訓詁学を完成して唐代までの儒学の本流を形成。また彼の学問は遠く清朝の考証学にも大きな影響を与えた。ただ、董仲舒と同じく、彼も漢代に隆盛を極めた陰陽五行説と讖緯説の影響は避けられず、この点は儒学に迷信を持ちこんだとして非難されることがある。

蔡倫(?-121)
後漢の宦官。樹皮・麻屑などを棒切れ・魚網などを用いて紙を漉く製紙法を開発した。(現在ではより以前の紙が発見されていて、製紙法の改良とされるが)人類史上の大発明である。それ以前は木簡・竹簡・絹布などが用いられていた。この製紙法はようやく751年のタラス河畔の戦いをきっかけにイスラム世界に伝わり、そしてヨーロッパへと西伝していく。彼自身は宦官として皇帝の擁立に暗躍し、班超を用いて北匈奴征伐や西域経営にあたらせたことで知られる和帝を帝位につけることに成功して栄華を誇った。しかし安帝の時には、かつて安帝の祖母を罪に落とした陰謀の張本人であったために帝に嫌われ、自殺に追い込まれてしまう。

陶淵明(365-427)
「帰りなんいざ、田園まさにあれなんとす、なんぞ帰らざる」の帰去来の辞で知られる東晋から南朝宋にかけての田園詩人。桃源郷のユートピア物語『桃花源記』の作者としても有名で、これは諸星大二郎がひねりを加えてちょっと怖いマンガ作品に仕立てている。束縛を嫌い、田園で酒を愛し、菊を愛して暮らす隠逸の人…と紹介されることが多いが、実はなかなかそれだけの人ではないぞ、この人は。「願わくは衣にありてはえりとなり、華首の余芳をうけん。願わくは裳にありては帯となり、美人の繊身を束ねん(なれるものなら、上着ならば襟となって貴女のかぐわしい髪の匂いにつつまれていたい。なれるものなら下着ならば、帯となってあなたのたおやかな腰をしめていてあげたい)のような煩悩につつまれた恋の詩をつくっていたりもする。意外とすけべである。また、彼には有名な「成年重ねてきたらず、一日再びあしたなりがたし。時に及んでまさに勉励すべし、歳月は人を待たず」の句がある。これは若いときは二度とこない。一日に二度朝はこない。だから一生懸命勉強しなさい。時は人を待ってはくれないよ…と勉強を勧めたものであるとされて、よく先生が教訓たれるのに引用される。君たちも小学校か中学校か高校かで校長先生の朝の朝礼で聞かされたことがあると思う。でもホン卜はこの句の前に「歓を得てはまさに楽しみをなすべし、斗酒比隣を集めよ」とあり、意味は、うれしい時にはこころゆくまで楽しみ、酒をたっぷり用意して近所の仲間と飲むがいい。若いときは二度とはこない。一日に二度目の朝はこない。楽しめるときにはせいぜい楽しもう。時は人をまってはくれないよ…というのが正しい。つまり、実は若者に勉強ではなく酒を勧める詩だったんだな。そういえば「少年老いやすく学なりがたし」という朱子の言葉も、江戸時代の坊さんが稚児にしている美少年におくった、いわば男色の恋文がもとで流行したという話をどこかで読んだような。いや困ったもんだ。

謝霊運(385-433)
南北朝時代の南朝宋の詩人。晋の名門の一族で、祖父は前秦符堅を383年の水の戦いで破った謝玄であるが、宋の代となって政治的には不遇であったため、官を辞し、自然を友として詩作に耽った。もっとも陶淵明がつつましやかに、むしろ晩年は困窮の中で暮らしたの対して、彼は父祖の財力をたのみに多くの奴卑を使用し、大荘園を開いて豪奢な生活を営み、また山水でしばしば大宴会を開いた。その生活が妬まれ恨まれ謀反の疑いありということで訴えられて処刑された。

昭明太子(501-531)
仏教の保護者として有名な南朝梁の建国者武帝の長子で皇太子であったが、数え年31歳の若さで没している。博学で知られ、周以来の優れた詩文を集めた『文選』を編纂。この書は中国知識人の必読書となり、日本にも奈良時代に紹介されて、以後大きな影響を与えた。

之(344-405)
東晋の文人画家で中国画道の祖とされる。しかし彼の直筆の絵は現在伝わっておらず、大英博物館所蔵で代表作とされる『女史箴図』(女教師が宮女に教える訓言集「女史箴」の一節一節を図示し、原文をつけたもの)は唐代の模写であるといわれる。ピカソやダリなど現代の画家も随分奇行で有名であるが、彼も画の技量と才能の卓絶ぶりとともに、奇矯な言動で知られており、洋の東西を問わず、画家というのは変な人種である。

王羲之(307-365)
東晋の書家。名門貴族の出身で、大官を歴任した後引退して悠々自適の生活を送った。楷書・行書・草書の三体を完成した中国書道の祖であると同時に、古今第一の書家であるとされ、“書聖”と称される。『蘭亭序』が有名。実際に書道をやってた人、高校の芸術で書道をとった人は彼の書を手本に練習したことがあるはずである。

阮籍(210-263)
竹林の七賢の第一の人物とされるが、彼をはじめとする七人が竹林で清談にふけったというのは伝説である。彼の生きた時代は魏から晋への王朝交替期で、複雑怪奇な世相を反映して儒教は振わず、老荘思想にもとづいて脱俗をよしとする風潮が高まった。それを代表する人物である。礼法の士(儒家)は白眼で迎え、超俗の士は青眼で迎えたと伝えられており、ここから白眼・白眼視の言葉が生まれた。

仏図澄(?-348)
シルクロードの天山南路北道の要衝クチャの人。大乗仏教を中国に布教せんと来中し、西晋末期の混乱期に洛陽で民衆救済のための活動と布教をおこない、華北仏教の墓礎を築いた。弟子の育成にも力を注ぎ、その数1万人といわれる。その中には後に浄土教の祖慧遠の師となる名僧道安がいる。

鳩摩羅什(350-409)
インド人を父とし、クチャの王の妹を母とする。九歳の時母と共に出家してインドのガンダーラ地方に留学し、最初当時クチャで有力だった小乗仏数を学んだのち、竜樹<ナーガルジュナ>の完成した大乗仏教の教えに接して大乗に転向。クチャ帰国後は大乗仏教の教えの普及に努め、名僧としての評判を中国にまで響かせる。その結果、道安の示唆を受けた符堅は西域に派遣した遠征軍に彼を捉え、連れ帰ることを厳命。前秦の遠征軍がクチャを攻略するや、捕虜となり、中国に連れ去られてしまう。中国では特に仏典の漢訳を積極的におこない、中国仏教、ひいては日本の仏教の確立に最大級の貢献をなした。

慧遠(334-416)
ブドチンガの弟子道安の弟子である。東晋の僧で南朝の仏教の隆盛に多大な影響を与えた。念仏三昧を説き、念仏行者の組織白蓮社を結成。浄土宗の祖とされる。陶淵明とも交際があり、またクマラジーヴァとも文通して仏教教義の疑問を問うなどの交流があった。

法顕(337-422)
東晋の僧。60歳を過ぎてから、戒律の原典を求めて長安から陸路シルクロードをインドへと旅立ち、西域諸国をへて6年かかってチャンドラグプタ2世(超日王)全盛期のグプタ朝へ入る。仏典を求め仏跡を巡り、セイロン島より海路帰国。出発から13年の歳月が流れており、この老齢でよくこれだけの大旅行をしたものだと関心。旅行記『仏国記』も重要。

達磨(5世紀頃-6世紀頃)
南インドのバラモン出身の僧。6世紀初頭、海路南北朝時代の中国を訪れ布教活動を開始。南朝の梁の武帝(昭明太子の父)の尊信を得て、小林寺に入って禅による修業を指導。中国禅宗の祖といわれる。壁に向かって座禅を続けること九年、ついに悟りを啓いたという伝説から作られたのが、選挙の時など我々が目にするあのダルマ人形である。

張陵(生没年未詳)
後漢末期に太平道とともに道教の源流となった五斗米道〔天師道)を創始。始め儒学を学んだ後、長生を求めて四川に赴き、山中で修業するー方で道書を著す。祈祷と呪術で病気治療をおこない、農民の間に信者を獲得すると教団を組織。病気治療の謝礼として米五斗を要求したことが教団名の由来である。道教の伝承では不老長生の薬を飲んで仙人となったと伝えるが、仏教側の資料ではうわばみにのまれて死んだことになっている。その子孫に受け継がれて教団は更に発展し、後に民衆反乱五斗米道の乱をひきおこすことになる。

寇謙之(363-448)
仏教の隆盛に刺激され、中国古来の神仙思想、老荘思想、陰陽五行説、易、呪術、占卜などを結びつけ、更にそれに仏教の儀礼をとりいれて天師道を改革した新天師道として道教を大成。河南の嵩山に20余年こもって修業し、ついに天帝の啓示を受けたと称して宣教につとめ、華北を統一した北魏の太武帝の信仰を獲得。道教を国教とし、国師としての待遇を受け、ついに太武帝をして三武一宗の法難の最初である仏教大弾圧を行わせた。

王維(701-761)
盛唐の詩人・画家。「詩中に画在り」と称され、李白杜甫に並び称される一方、墨の濃淡で立体感を表す画風を完成し、後世文人画(南画)の祖として尊敬された。山西省に生まれ、少年時に都長安に移り、その美貌と詩・音曲の才で早くから評判となる.安史の乱に際しては反乱軍に捕われて、その宮廷に仕えることを強要されたが、唐王朝の復活を願う至誠の詩作をなし、そのため乱鎮圧後も罪を免れている。仏教に帰依し、31歳で妻を無くした後は独身を通してよく母につかえ、純情高潔な人柄で人々の尊敬をあつめ、慕われたという。

李白(701-762)
盛唐の詩人。「白髪三千丈」といった奔放な表現を特徴とし詩仙と称されて唐の詩人中最も人気がある。各地を放浪し、酒を愛し、酒に酔って多くの詩作をなした。その行状は親友杜甫に「李白は一斗/詩百遍/長安市上/酒家に眠る/天子呼び来たれども/船に上らず/みずから称す/臣はこれ酒中の仙と」とうたわれたほどである。楊子江で船を浮かべて遊んでいたとき、酔って水面に映った月をとらえようとして誤って転落し、溺死したという伝説がある。

杜甫(712-770)
盛唐の詩人。「国破れて山河あり/城春にして草木深し」で殆まる『春望』は安史の乱に臨んで作ったものである。玄宗皇帝の時代に生き李白と親友であった彼は、後世詩聖と呼ばれて高く評価されたが、その一生は放浪の一生であった。それも政治に志しを持ちながら、官につく機会がなかったり、官についても首になったり、あるいは安史の乱のために地方に難を避けるなど、自ら望んでではない放浪の生涯を余儀なくされた。その最後の二年も長安への帰還を望みながら、湖北・湖南の船の上で漂泊生活を続け、ついに湖江を漂う船の上で死んでいる。また彼の詩も当時の混乱した世相から一般には知られず、中国第一の詩人との評価が確立したのは、ようやくその死後40年を経た中唐の時代である。

白楽天(772-846)
中唐を代表する詩人。玄宗皇帝と楊貴妃をモデルとした『長恨歌』や日々の感傷を綴った『琵琶行』を始め、唐代最多の3000余首の詩作を行い、晩年には自ら『白氏文集』を編んだ。平安期の日本で最も愛された中国詩人であり、それは『枕草子』の一エピソードに、清少納言が雪の日皇后に「少納言よ、香炉峰の雪はいかならん」と問われ、黙って御格子をあけ、御簾を高くかかげて見せてその才気を感嘆されたことが、とりあげられていることからもうかがえる。皇后の問いは『白氏文集』の詩の一節「遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聞き、香炉峰の雪は簾をかかげて看る」を踏まえたものであったのである。さてその詩人の生涯といえば貧しい家に生まれながら、29歳で一族ではじめて進士に合格し、地方官を振り出しに勤勉な官吏生活を続けて出世を重ね、途中一時政治の乱れを糾弾して左遷されるというようなことがあったものの、最後は行部尚書(司法長官)の地位まで登り、引退後は洛陽郊外で酒と詩を供に、悠々自適の生活を送るという、詩人には珍しい順風満帆の一生であった。

韓愈(768-824)
「韓白」と白居易と並び称され、中唐を代表する詩人でもあるが、六朝以来の四六駢儷体の技巧に流れた文体を嫌い、漢以前の古文復興運動を提唱し、様々な人生の形を描く『墓誌銘』に優れた散文作品を残して唐宋八大家のはじめに数えられる文章家としてより重要である。思想家としては儒教の優越を主張し、道教と仏教を異端として激しく排撃したことで知られる。政治家としては、上官の不正糾弾や、時の天子の仏舎利宮中導入への反対などで二度に渡って左遷されるも屈せず、性剛直との評を残した。面倒見のいい親分はだの性格であったらしく、柳宗元を始めとする文人が彼の周りに集まり、当時の文壇の巨頭であった。

柳宗玄(773-819)
叙景・叙情に優れ韓愈とならび称される中唐の詩文の大家。唐宋八大家の一人。屈原に傾倒したが、詩には六朝の自然詩入、陶淵明の影響がある。21歳で進士に合格し、順調に政治家としてのキャリアを重ね、32歳の頃、徳宗の死を契機に政治改革派が政権を握るとその中心人物として活躍。しかし一年後、改革派が政争に破れ弾圧されると地方に左遷。10年後長安に呼び戻されたものの、すぐにさらに遠方の柳州(現広西省)におくられ、47歳でその地に没した。一方で家庭生活では30歳頃までに父・妻・二人の姉を次々に失っている。このような政治面での不遇・家庭生活の不幸は、皮肉なことに彼の作品をよりすぐれたものにしたといわれている。同僚でもあった韓愈は、古文復興運動の盟友であったが、韓愈が仏教を毛嫌いしたのに対して、彼は特に左遷後は、禅に親しんだことが知られている。

閻立本(?-673)
唐初期の画家で、官僚としても優れており、大宗・高宗に仕えて中書令まで出世した。人物画で知られ、漢から隋までの歴代の皇帝の肖像を描いた代表作『歴代帝王図巻』は、教科書や参考書の挿し絵で目にしているはずである。

呉道玄(生没年未詳)
玄宗に仕えた唐の画家。没落貴族の家に生まれ、小役入となったものの貧苦と孤独の生活であったが、その画才が玄宗の目に留まり、宮廷画家となる。様々な画題をこなしたが、特に山水画に秀で、墨での岩肌の描写などの技術を生みだし、従来の非現実的・空想的な山水画を、現実感覚に溢れた山水画に一変。後の中国、および日本の絵画に決定的な影響を与え、<画聖>と称賛された。もっともその真作は伝わっていない。

欧陽詢(557-641)
隋末唐初の書家・学者・政治家。はじめ隋につかえ、のち唐の高祖・太宗の二代に仕える。王羲之の圧倒的な影響下にあったが、次第に厳整美を特徴とする独自の書風を加えて、特に楷書に秀でた。初唐三大家の一人。

遂良(596-658)
唐初の書家・政治家。欧陽詢・虞世南とともに初唐三大家と称される。虞世南の後を継いで太宗李世民の書道顧問となり、太宗の王羲之の書跡収集事業の管理を担当。この時王羲之の書風を研究し、婉美を加えて自己の書風を確立。書道の第一人者とみなされるようになった。政治家としても太宗の信任を得て、中書令(宰相)にまで出世。太宗の死にあたっては後事を託された。しかし太宗の息子高宗が、太宗下級の妃であった武妃(後の則天武后)を皇后にしようとした時、反対して左遷され、不遇のうちに地方で没した。

顔真卿(709-785)
中国書道において六朝の書聖王羲之とならび称される書道の大家。王羲之の典雅に対して素朴で力強い書風で知られる。実際にも彼は安史の乱勃発に際し、文官でありながら義勇軍を募って乱軍に抗し続け、唐王朝の復興に大きな貢献をなした剛直の忠臣であった。安史の乱後は、乱鎮圧の功労者として唐宮廷に重きをなしたが、監察を担当する御史台の長御史大夫として宰相や権勢家としばしば対立。ついに784年の李希烈の反乱にさいして彼を好まない宰相の策略により、希烈説得の役目を与えられ、死を決しておもむき、結局その陣営に拘留されたあと殺された。

孔穎達(574-648)
煬帝の時に科挙に合格し、はじめ儒学者として隋に仕えた。隋末の大乱後、唐の太宗李世民に招かれて唐に仕え、太宗の信任を得た。『隋書』の編纂の後、五経注釈の集大成を目指した『五経正義』編纂の中心となり、各巻の序文を書いている。もっとも彼の責任ではないが、『五経正義』は科挙に用いられたため儒学の固定化を招いたことでも有名である。

玄奘(602-664)
諸星大二郎『西遊妖猿伝』・明の呉承恩の『西遊記』の三蔵法師のモデル。建国当初の唐は外国への出国を禁じていたが、仏教研究の情熟やみがたく、夜陰に乗じて単身国境を越え出国。西域の高昌国で高昌王の知遇を得て、西域各国への紹介状と往復20年分の経費を獲得。インドに渡ってはヴァルダナ朝ハルシャ=ヴァルダナ王の厚遇を得てナーランダ僧院に留学とつきにも恵まれた。仏教研究と仏典収集の年月を過ごした後に、仏典や仏骨を携え、また陸路帰国の旅に出る。途中インダス川で、仏典をつんだ像が溺死することがあったため、しばらく西域南道の要衝ホータンに滞在して仏典を集めていたが、彼の名声は唐に及び、唐の太宗は彼の帰国を歓迎するとの親書を届けた。国禁を破った犯罪者として出国した彼はここに唐随一の名僧として栄誉の帰国を果たすのである。しかしその時、彼のインドへの旅を援助した高昌国は、唐に滅ぼされて既になかった。旅行記は『大唐西域記』。

義浄(635-715)
法顕や玄奘の業績に憧れ、37歳の時、単身海路広州よりインドへ渡る。この時既にヴァルダナ朝は崩壊していたが、ナーランダ僧院に留学して仏教を研究。さらに海路帰国途中に立ち寄ったジャワ島のシュリーヴィジャヤ王国で大乗仏教が盛んなのを見て、首都パレンバンに10年間にわたって滞在。この間にインド各地や東南アジアでの見聞をもとに『南海寄帰内法伝』・唐より仏典を求めてインドに向かった僧たちの伝記『大唐西域求法高僧伝』を執筆。帰国した時は則天武后の時代で、武后により玄奘と同じ三蔵の称号を与えられ、仏典翻訳にあたった。

鑑真(688-763)
唐の高僧。当時の日本には授戒を授ける資格のある僧侶がいなかったため、請われて日本にわたることを決意。しかし、当時の航海術には問題があり、渡航は命がけだった。日本にわたろうと試みて、失敗すること12年の間に5回。その間に盲目になるなどの苦難を重ね、ついに754年に来日した。その死に先だって弟子達に作らせた『鑑真像』は、最大級の国宝としていまもゆかりの唐招提寺に安置されている。

阿倍仲麻呂(701-770)
遣唐使の一員として唐にわたり、玄宗皇帝に仕えてついに節度使にまで出世した。しかし望郷の思いやみがたく、753年玄宗皇帝の許しを得て帰国の旅に上ることになった。その時彼が作った歌が有名な「あまのはら/ふりさけみればかすがなる/みかさのやまに/いでしつきかも」である。しかしこの渡航は失敗して船は安南(ヴェトナム)まで漂流し、そこで180余名のうち、170余名までが殺されるというめにあった。この時、彼も死んだという情報が伝わり、親交があった李白が、彼の死を悼む詩を作っている。しかし彼は危うく難を逃れて2年後にやっと長安に帰ったものの、安史の乱の勃発もあってついに日本に帰ることはかなわず長安で没した。

司馬光(1019-1086)
孔子の『春秋』にならい、『春秋』のとりあげた後の時代、すなわち前432年の晋の分裂による戦国時代の開始から、960年の宋の建国までの歴史を年代順に記した編年体の通史『資治通鑑』を完成したことで知られる。この書はその考証のきわめて正確なこと、今では失われてしまった根本資料からの抜粋を多く含んでいることから、歴史書として重要であり、高く評価されている。しかしそこにつらぬかれているのは、大義名分論の価値観である。彼はこの書を王安石新法党に反対して、政府を辞している時に完成した。しかしいにしえをもってよしとする彼の道徳観は、結局は大商人や大土地所有者である形勢戸・官戸としての彼らの特権を擁護するものにほかならず、新法の履行を妨げてその改革の効果を減じた。また彼は、旧法党の首領として神宗の死にともない政府に復帰し、何の準備もともなわないまま新法の廃止と旧法の復活をおこなって大混乱を招き、また新法を必要とした現実の諸問題になんら有効な対策を持ち得なかった。最悪の政治家としての汚名を残さなかったのは、皮肉なことに僅か8か月後に病で死んでしまったためである。そのために後世責任を問われること少なかったが、後に混乱と果てしなく続く党争だけを残し、北宋の衰退をよんだ張本人は、間違いなくこの人物である。

宗(1082-1135)
新法の改革をおこなった神宗の子。芸術に探い造詣をもち、画院に書家を集めて花鳥風月を彩色で写実的に描く院体画を完成。自ら最も優れた画家として『桃鳥図』などの傑作を残し「風流天子」と称された。しかし自己の風流を追及するために、当時の宋の国情を無視して民に重税をかけ、これを苦しめた。また遼を討つために新興の金と手を結んで挟撃策をとって遼を滅ぼしながら、金との協定を無視してその怒りを買い首都開封を包囲されて、息子の欽宗に帝位を譲って退位。この時は一年後の賠償金を約すことでなんとか危機を切り抜けたものの、現実にその約した賠償金を払う能力は無く、翌年、またしてもの背信に怒った金によって、ついに開封を占領され、息子の欽宗や高官、宮廷の秘宝などとともに、東北地方に連行された。これが靖康の変である。

周敦(1017-1073)
唐代までの儒学は訓詁学が中心であったが、それに反発し、仏教や道教の影響も受けて、宇宙の根本原理は何かを明らかにし、そこから人間として何をなすべきかを追及しようとした。彼によれば学問は格物致知から誠意正心、修身斉家、治国平天下にすすむ。その目的は聖人である。聖人は天理そのものであり、爽雑のない人格である−とその昔、青学の入試問題の文中に出てきていた。地方官としての生活が長かったため、生きている間はあまり知られなかったが、朱子が彼を道学の祖として、その著『太極図説』を紹介したため有名になった。

朱子(朱熹)(1130-1200)
『大学』『中庸』『論語』『孟子』を『四書』と称して儒教の根本経典とし、周敦やその弟子の・程兄弟の学説を集大成して、儒学として空前絶後の思弁哲学・実践倫理学である朱子学を築いた。その学問はまた、宋学とも、道学とも、性理学とも言われる。宇宙万物は理(宇宙の根本原埋)と気(宇宙の根本物質)からなるという理気二元論を説き、人間に宿った根本原理が性であるとして、性即理(性はすなわち理である)とする。ところが人間は人欲にじゃまされて、自分の中の根本原理である性に従う、すなわち宇宙の根本原理である理に従って行動することが出来ない。では、人欲を去って天理につくす、性即理の境地に達するためにはどうするべきか。それは格物致知(事物に即してその理を極めることで認識を完成する)によるのである…とした。理をブラフマン・性をアートマンとウパニシャッド哲学の用語に置き換えてみるとこの性と理は理解しやすくなる。また、性即理の境地にいたった、つまり仏教で言う悟りを啓いて仏陀になることが、朱子学でいう聖人になることであるが、そのために精神的修業よりも、学問研究(格物致知)を強調したことから、朱子学の主知主義的傾向が言われるわけである。一方で彼は実際面では、華北の地を女真族の金に占領され、反撃もままならない当時の南宋の屈折した雰囲気を代表して、華夷の別を激しく強調し、また君臣間、親子間の道徳を強調する大義名分論を唱えるという、なかなかに反動的な主張も展開している。彼の学問は生前には政敵によって偽学として禁じられもしたが、後に儒学の正統となって朝鮮・日本にも伝わり、日本では特にその大義名分論が評価されて江戸幕府で官学となった。もっとも江戸期の日本の儒学者は、イエズス会士によって欧州に紹介され、ヴォルテールを感嘆せしめたという、理気二元論や性即理説などには歯がたたず、李氏朝鮮の大儒学者李退渓(イ・テグ)の著作に解釈を頼っていたりする。

陸九淵(1139-1192)
南宋の儒学者で、朱子の理気二元論に対して理の存在だけを認め、人間の心と理の一致をとく唯心論(観念論)の立場から理一元論を説き、朱子の性即理に対して心即理を唱え、自分の心を理解するためには座禅を勧めた。朱子とは学説の違いを越えて、深く尊敬し合う仲であったというが、弟子は対立。その説は明の時代になって王陽明(王守仁)の陽明学の成立に影響を与えた。

欧陽脩(1007-1072)
北宋の政治家・学者・唐宋八大家の一人。学者としては『新唐書』の編纂で有名。また韓愈に私淑して宋代の古文復興運動の中心となり、科挙の試験官となった時に四六駢儷体の影響を受けた文章の答案をことごとく没とする荒療治で四六駢儷体にとどめをさした。唐宋八大家のうち、宋代の残り5人はいずれも彼の門下である。政治家としては、文章の弟子である王安石の新法に反対し、辞任した。もっとも反対の理由として「新法が実施されれば、富農にたかることが出来なくなり、官僚になるかいがない」といった意味のことを言っており、それはちよっとないんじゃないかという気がする。

王重陽(1113-1170)
陝西の荘園地主の子に生まれ、幼い頃より勉学に励んで、金の科挙に合格。ところが期待したほどの出世がえられなかったために官を辞し、俗世を批判して、一時仏教に帰依した後に道土となった。金朝支配下の華北で腐敗堕落して単なる迷信と化した従来の道教を批判し、儒教と仏教、特に禅宗の教えを取り入れて革新道教の全真数を確立。もっとも預言者故郷に入れられずで、故郷の近くで教えを説いた時は狂人あつかいされ、山東地方で布教してはじめて成功を治め、従来の道教(正一教)と道教界を二分する大勢力となった。弟子をつれて故郷に帰ろうとして果たせず、途中開封で病没。

郭守敬(1231-1316)
中国元代の科学者。世祖フビライに仕えて水利・土木事業に功績を上げて信任される。やがて当時使用されていた大明暦のずれが大きくなってくると、1276年、改暦の責任者に任命。イスラムの天文学の成果をとりいれ、計算に加えて、各種観測器具も使い、ついに1280年、中国王朝史上最も正確な授時暦を完成した。授時暦は日本でも研究されて、江戸時代の貞享暦に大きな影響を与えている。

馬致遠
元初の元曲の作家。生没年不詳。伝もほとんどわかっていない。代表作『漢宮秋』は、漢の時代、和蕃公主として匈奴の呼韓邪単千に嫁いでいった王昭君の故事にちなんだもので、王昭君物の決定版とされ、元曲随一の評判をとる。
 
王陽明(1472-1529)
明代の儒学者。北宋のの「万物一体の仁」の思想と南宋の陸九淵の「心即理」説とに影響を受け、陽明学を創始。代々続く学者の家に、明の高級官僚の子として生まれる。科挙合格のために幼少より朱子学を学ぷも、官学的形式的な朱子学になじめず、一時仁侠・兵法・詩文・道教・禅宗などに耽溺。28歳で進士に及第して官僚となるも、35歳の時、悪宦官を批判して、貴州省の山奥の竜場に左遷。ここで心即埋・知行合一・致良知(全ての人間の中に存在する<良知=是非の判断能カ>を実行すること)の陽明学の思想の原型を得る。これを竜場の一悟という。致良知の思想は、心の奥底にたしかめて非である時は、孔子の言葉でも是とはしない、というものである。主知的な朱子学は、一部のエリートしかできないが、致良知の思想は誰にでも実行できる。陽明学はこれにより最底辺の人にまで広がっていく。中央政界に復帰後は、主に軍事畑をあゆみ、天才的な軍略家として、流賊の取り締まりや反乱の鎮圧に活躍し、ことごとく勝利をおさめて、ついに兵部尚書となった。

李卓吾(1527-1602)
明代の儒学者で陽明学左派の最後を飾る人物。泉州の出身で、その家の信仰は、イスラム教であった可能性がある。童子の濁りの無い心を最も価値ありとみなす童心説を唱え、五経や四書の儒学の経典と『西廂記』や『水滸伝』を同列に論じ、男女平等も主張。そのあまりの革新性ゆえにたびたび迫害を受け、ついに投獄されて自殺した。幕末維新の思想家吉田松陰が最も傾倒した人物としても有名。

羅貫中
元末明初の小説家・戯曲家。生没年不詳。北宋末期、山東の梁山泊によった豪傑の物語『水滸伝』を元の施耐庵の原作から編纂。正史の『三国志』を種本に、『三国志演義』を著す。『三国志演義』は全24巻。横山光輝のマンガだと60巻である。ちなみに横山光輝は『水滸伝』もマンガにしてるので、てっとり早く楽しみたい人はそちらをどうぞ。

宋応星(1590-1650)
明末の学者で代表的技術書『天工開物』の著者。江西省の出身で科挙のうち、郷試に合格して地方官となる。地方官としてははなはだ優秀で、業績を上げ、庶民の人気も高く、なんと肖像が作られて神様として祭られたというエピソードが知られている。『天工開物』は、キリス卜教宣教師たちにより西洋科学書が次々に翻訳されていた時代背景のもとで生まれたが、内容に関しては西洋科学の影響はあまりなく、中国在来の産業技術のほとんど全てに関して、豊富な挿し絵とともに説明を加えたものであり、当時の産業技術の資料として貴重なものとなっている。

李自珍(1523-1596)
明末の薬草学者で『本草綱目』の著者。代々続く医者の家に生まれ、科挙に三回失敗した後本草(薬学)・医学にこころざす。30歳ころから従来の本草書を整理して誤りを正し、自説を加える作業をするうち、本草書の集大成を思い立ち、以後30年、都合3回稿を改めてついに完成。死の直前南京から出版されて、日本の農学者や物産学者にも大きな影響をもたらした。

徐光啓(1562-1633)
明朝末の政治家・農学者。上海の人で、イエズス会宜教師マテオ=リッチの著した世界地図、『坤輿万国全図』を見て西欧の学問に憧れ、マテオ=リッチの滞在する南京に赴き、1600年南京でマテオ=リッチにより、キリス卜教の教義を授けられ、1603年には洗礼を受けた。翌年進士に及第して官につく一方マテオ=リッチに西欧諸学を学び、エウクレイデスの幾何学書の前半を漢訳して出版。のち一時官を辞して農学の研究につとめ、中国の農学を集大成しさらに西欧の知識を加え、大作『農政全書』を完成。一方でサツマイモなどの普及につとめる。後金のヌルハチが率いる女真軍の勢力が増大し明軍が劣性になると、砲術を中心とする西洋兵学の導入を進言し、マカオより大砲を購入。大戦果を上げている。崇禎帝の即位により重用され、礼部尚書(文部大臣)になり、アダム=シャールらと西洋暦法を導入した崇禎暦書作成に従事した。

仇英(生没年不明)
16世紀前半頃に活躍した院体画(北宗画)の画家である。院体画は南宋の画院の流れを組む画風であり、その画家は出身身分の低い者が多く、文人画の画家からは、画家というよりも職人的な画工として一段低く見られていた。彼も低層の出身であったが、古画の模写などを通じて刻苦して技術を高め、筆力を尊重しながら正確無比な描線を駆使する画風を完成。20歳の頃より識者に認められ、同時代の代表的文人画家の文徴明からも画仲間として遇されたという。人物描写、特に美人画に優れ、明末から清初にかけて流行した「士女風俗図」に大きな影響を与え、さらにわが国の浮世絵にも影響を与えた。40代で没したとみられている。

董其昌(1555-1636)
南宗画を大成した明代の画家。南宗画・北宗画の命名者でもあり、書家としても明代第一とされ、「芸林百世の師」と仰がれた。政治家としても高官を歴任したため、その南宗画の画風と理論は後世決定的な影響を与えたが、そのために彼以降の南宗画を全く個性のないものにしてしまったことも否定できない。著書に『両禅室随筆』など。

マテオ=リッチ(1552-1610)
中国名利瑪竇フランシスコ=シャビエルが果たせなかった中国布教を開始したイエズス会士。ポルトガルの交易路を利用し、ゴアからマカオへ到り、中国上陸。中国人をキリス卜教信仰に導くためにはまず士大夫(読書人)層の信仰を獲得しなければならないと考え、世界地図の翻刻をはじめて『坤輿万国全図』として完成。これは徐光啓の入信のきっかけとなるなど、大きな反響をよんだ。1601年に上京したさい、置き時計をはじめとする珍奇な品々を持参し、万暦帝に献上。定住を許され、以後北京で布教活動と西欧学芸の紹介につとめた。布教に関しては、中国人の教徒が孔子崇拝や祖先崇拝の儀式に参加することを認めるなど、柔軟な態度をとったが、これは後の典礼問題の遠因となる。

アダム=シャール(1591-1666)
本名シャル=フォン=ベル。中国名湯若望。ドイツのケルンの人で、イエズス会士となり1622年中国に到着。1610年のマテオ=リッチの死後、イエズス会は一時北京を追われていたが、徐光啓の進言により、明朝がヌルハチ率いる満州兵への対抗策として西洋の大砲を求めた結果、許されて北京復帰を果たした。この時のイエズス会士の中心となり、明朝のために大砲を鋳造。また天文学に造詣が深く、徐光啓のもとで西洋天文学書の翻訳に従事し、『崇禎暦書』として42年宮廷に上程。44年明朝が滅び清朝がかわると、清朝は、彼に西洋天文学によって暦を作成することを命じ、46年には欽天監監正(天文台長官)に任じられて順治帝の知遇を得た。ところがこれによって元以来のイスラム天文学者や中国伝統の天文学者の嫉妬をかい、康熙帝即位に際して讒言されて投獄され、一時は死刑を宣告される。かろうじてこれは免れたものの、その後憤死に等しい死をとげた。

フェルビースト(1623-1688)
中国名南懐仁。ベルキー出身のイエズス会士で、アダム=シャールを助けて欽天監の仕事にあたっていたが、守旧派天文学者の陰謀による弾庄で、アダム=シャールとともに投獄された。後に陰謀の張本人の天文学者たちと腕比べをしてこれを討ち負かし、欽天監監正への就任を求められたがこれを固持。副監正の地位にとどまりながら事実上欽天監の仕事を監督した。一方で三藩の乱にさいして大砲を鋳造し、世界地図『坤輿全図』の作成にもあたった。

ブーヴェ(1656-1730)
フランス出身のイエズス会宣教土。中国名白進。ルイ14世の中国派遺宜教士団の一員としてレジス(雷孝思)らとともに中国に渡り、康熙帝に仕えた。康熙帝に心酔して『康熙帝伝』を著し、そのために康熙帝の名声が欧州にまで鳴り響くことになった。中国全土の実測地図『皇輿全覧図』の作成にもレジスとともに参与している。

カスティリオーネ(1688-1766)
中国名郎世寧。イタリアはミラノ出身の画家・イエズス会士。清朝宮廷が西洋画家を求めていることを知り、志願して中国に渡って、康熙・雍正・乾隆の三代に仕えた。1723年の雍正帝のキリス卜教布教禁止の際にも、その画技が認められて雍正帝に保護され、キリス卜教徒迫害の緩和に貢献した。またべルサイユ宮殿を模したバロック風の離宮、円明園の設計も担当している。中国趣味がイエズス会宜教師らによって欧州に伝えられ、バロックにかわるロココの成立を見たことを考えれば、これは歴史の皮肉である。

黄宗羲(1610-1695)
明末清初の学者で浙江省の出身。経世致用を唱える考証学の祖の一人。陽明学を学んだが、空論化した明末の陽明学左派には批判的であった。父は政治改革を目指した東林党に属したが東林党への弾圧で刑死。師の陽明学者劉宗周は、明朝滅亡に絶食して殉死。彼も明朝滅亡後は復明運動に加わり、長崎まで援軍を求めに来て果たせず、復明の希望が断たれた後は、清朝からの仕官の勧めを断って帰郷。以後は学問に没頭し、徹底的な政治制度改革を唱えた。宰相制度の復活、学校制度の充実、学校における意見の中央政治への吸収などを唱えた彼の改革案は、一種の民本主義に基づいており、専制君主政治を痛烈に批判したその著『明夷待訪録』は清未の改革運動に大きな影響を与えて、中国のルソーと称賛された。もっとも本物のルソーよりも更に100年ほど早い人である。

顧炎武(1613-1682)
明末清初の儒学者。明末の陽明学の空理空論化を批判し、経世致用を唱え、厳密な考証を重視する考証学を確立。代表作『日知録』は、日々の読書研究の際の随想録の形をとり、政治・経済・天文・地理・制度など広い範囲を該博な知識を背景に、厳密な考証と鋭い批評で論じたものである。明が滅亡すると母をともなって各地を転々とする一方、復明運動にも加わったが、復明はならず、母は清朝に仕えて節操をけがしてはならぬと遺言して絶食20余日で明朝に殉じる。彼の学問見識を惜しむ清朝のたびたびの仕官の申し出を断り、引退生活をおくった。

銭大(1728-1804)
乾隆帝期の考証学者。神童の名を轟かせ、西洋数学・天文学と中国暦算書を比較研究した著作を著した後に、27歳で進士に及第。その後は勅撰集の編纂事業に携わっていたが、20年の後、父の喪を期に故郷に帰り、以後30年、官吏生活とは縁を切って故郷の紫陽書院などの主任教授として後進の指導にあたる一方、多くの学問的業績を上げた。なかでも『二十二史考異』を始めとする史学の考証には特に傑出している。

魏源(1794-1857)
清末公羊学の先駆者。進士及第は1844年と遅かったが、その以前に前漢で董仲舒が説き、清末になって政治改革実践の学として復活した公羊学を学び、中国社会の矛盾と外国勢力の圧力が表面化してきた時代の先覚者として執筆括動にはいっていた。1840-42年のアヘン戦争にも参加し清朝の敗北に直面。この時、盟友であった林則徐に、彼が進めていた外国研究の成果を託された。その体験をもとに、42年には、清朝の盛衰を描いた『聖武記』44年には近代的軍備の必要を訴えて、世界地埋や、西欧諸国の実情を紹介した『海国図志』を著す。官について後は、地方官として各州の知事を歴任し、太平天国の乱でも従軍している。変法思想の先駆者でもあり、その著作は吉田松陰など、日本の幕末維新連動にも大きな影響を与えている。

康有為(1858-1927
清末民国初期の公羊学者・政治家。広東省の名門に生まれ、列強に侵食される中国社会の現状に愛国心を燃やし、広く史学・仏教学・公羊学を学ぶ一方で西欧の新思潮も吸収。その結果たどりついたのが、孔子を古代に理想を置く復古主義者ではなく、来るべき新しい王朝のために制度を改めた革命思想家であり、古代に仮託して乱世から小康を経、昇平・太平を経て究極の大同に進む歴史の進化を説いた人物であるとみなす、儒学のコペルニクス的展開であった。主著『大同書』は、国家、階級、人種、家族などいっさいの束縛から解放された理想社会大同を構想したものであり、当時の知識層の幅広い共感を集めた。彼は私塾を開いて後進を指導する一方で、政権を握っていた洋務派の政策を批判し、日本の明治維新にならった徹底的な改革を説いて変法自強運動を指導。1888年早くも一民間人としては異例の光緒帝への上書を行い1895年に科挙合格後も上書を繰り返し、1898年日清戦争敗北後の世相の変化もあって、ついに光緒帝に抜てき。戊戌の変法と言われる革新政治にとりかかるも百日維新という別名で知られるように、西太后と結んだ保守派の巻き返しにあってわずか百日ほどで失敗。日本に亡命した。その後は、孫文の中国革命同盟会に対して、光緒帝の擁立をとなえる保皇会を指導するなど、激動の時流から取り残され、保守派の代表的人物とみなされておわってしまった。

八大山人(1625-1705)
清初の南宗画を石涛と共に代表する画家。明の王族出身で、明滅亡後は出家して高僧として名をなしたが55歳の頃狂人を装って還俗し、画作を始める。唖者のふりをしたり、酒に酔いながら画作したりと、数々の奇行で知られ、またその絵の多くは子供や貧乏人に与えてしまったといわれる。70歳を過ぎて石涛と交遊したことが知られているが、晩年は明らかでなく、80歳頃没したらしい。

石涛         
八大山人と並び称される清初の代表的南宗画家。生没年不明であるが、八大山人より14-5歳年少と見られている。やはり明の王族出身であったらしく、独自の風格を持つその絵は、前王朝に連なるものとしての鬱屈した抵抗精神の反映であろうといわれている。