02年2月28日
一橋大学の入試問題解答速報の作成会議。昨年、傾向をがらりと変えたので、今年はどうなるかと注目していたら、例年に戻った。ただ、これも隔年現象がありそうなので、来年は難化しそう。本日で2001年関係の仕事はほぼ終了。明日からは2002年に向けて頭を切り替えなければならない。切り替えよう。切り替えると、テキストや模試や問題集関係の各種〆切が目前に迫っている現実に直面。うわっ。
02年2月27日
昨日著者謹呈(自慢!)で届いていたの『少年トレチア』を読了。やっぱ津原は凄いわ。と学生時代から幾度繰り返したかわからない感想をまた繰り返す。
02年2月26日
東大の入試問題解答速報の作成会議。第一問は予想通り、同時代史。ここ数年隔年現象で同時代史と地域史が交替しており、昨年がエジプト史の地域史だったので、今年は同時代史という予想はあたった。テーマは19世紀から20世紀初頭の中国からの移民流出の、中国側と受け入れ側の要因。数年前に千葉大学で同テーマが出題されたことがある。一応講義で力を入れてやったはずのテーマではある。東大受験の連中は出来ただろうか。心配。のでもこのテーマに触れてあったのだけど。第二問、第三問は、昨年が簡単過ぎたので難化するだろうと予想していたら、やはり難化。でもこちらの予想は当たってほしくなかったな。
02年2月25日
花粉症がついに本格化し、病院に急行。待ち時間中、校正。したら、校正原稿に鼻水が垂れてインクがにじんじった。バッチイ。
僕の場合、まず杉花粉でやられて後、5月から6月までは「かもがや」(血液検査で反応が出たときには、何だ、それ?が第一印象。オーチャード‐グラスというイネ科の輸入植物の和名で、牧草として全国で栽培され、道端や原野で野生化もしているそうです。)でさらに悪化。7月にやっとおさまったと思ったら、9月から10月にかけて秋花粉。そうです。年に半分以上花粉症です。しかも年々症状が激化している。プチ不幸として会話のネタになるし、まあいいか、という段階はとっくに過ぎた。でもネタにするけど。
02年2月24日
午前10:00頃より息子二人のお供で近くの公園に。交通公園を兼ねていて、自転車用の周回舗装路が芝生広場の回りを取り巻いており、自転車の練習にぴったり。長男は子供用マウンテンバイク、次男は補助輪付き子供自転車で1時間ほど走り回る。一旦帰宅後すぐ、今度は徒歩3分のところにある公営温水プールへ。
明日の筋肉痛は、これで決定か。
02年2月23日
午前中に大量の校正原稿到着。なんか仕事がたてこんできたぞ。午後早稲田解答速報の会議に出席。商学部の問題が用意されていたので解いてみる。超悪問。なんか、法学部と違いすぎるんですけど。
02年2月22日
明日は早稲田の商学部と法学部の解答速報作成会議。なので、まず法学部の問題が送られてくる。早稲田の問題というと、奇問・悪問のパレードが常なので、半ば鬱モードで問題を見始めたら、意外。問題が良くなっている。法学部に関しては、昨年も例年と比べて悪問・奇問・受験範囲を逸脱した(誰も解答できないくせにマーク式なので、くじ引きといっしょ)意味のない難問が減少していたけど、今年はさらにはっきりとその傾向が。おまけに、最後の250字論述問題が本格的な問題に。今までの早稲田法の論述と言えば、指定語句が大量にあって、出来事の「経過」を聞くだけの単純なもの(これも昨年から「比較」の視点が入ってはいたけど)だったのに、今回は流行りの国家論で、中世から現代までのヨーロッパ国家の特徴をまとめる内容理解に踏み込んだものになった。今年の問題に関しては、この論述問題の出来不出来で圧倒的な差がつく。
ということは、早稲田法、ロースクールをにらんで、改革の必要性に目覚めたということか。このタイプの問題だと、“早稲田病”にかかって、早稲田合格だけを悲願にとにかく難解な用語の詰め込み暗記勉強をやってきました、という受験生は歯がたたない。早稲田病受験生は論述問題が全くできないのが通例なので。では、どういう連中が出来るかというと、東大・一橋受験組。特に東大受験がメインだと、社会科2科目なので、細かな事項暗記には手が回らない。が、論述対策はばっちり。東大・一橋受験組の落ち穂拾い狙い、が、この法学部の入試問題変化の背景にある、というのが山内の読みですが、さて。
02年2月21日
に相変わらず悪戦苦闘。内容面での仕様やレイアウトなどはようやく固まってきたけど、このやり方って時間がかかり過ぎ。とんでもないことを始めてしまったかもしれない。
02年2月20日
,にを追加。
02年2月19日
野原・竹内両氏と西荻窪ツアー。当時よく飯を食った洋食屋さんで昼食後、予備校講師生活の原点となった街を探索。覚えのある建物や風景を見いだす度に、記憶と当時の感覚が呼び戻される。一方で、仕事の場としていた時には見えていなかった古書店なども発見。最後は貧乏だった当時の行きつけの居酒屋で締める。勘定したら、一人1800円で済んでいた。いや、当時行きつけにしていたはずと納得。この間、歴史における音楽の役割から、日本の現在の窮状分析まで話題は尽きず。
02年2月18日
2月17・18日と一泊二日でディズニーリゾート。初日はディズニーシーとイクスピアリ、本日はディズニーランド、ちょと天気がよくなかったけど、事前の予報よりはまし。いや、堪能しました。特にディズニーシー、異世界の作り方がより洗練されて、山内家的には全員一致でこっちがすごい。え、長男の小学校はどうしたか?もちろん風邪をひいたことにして休ませました。そしたらホテル(ヒルトン東京ベイ)には風邪をひいたとおぼしき子供がうようよ。国民教育制度の絶対性って、やっぱり揺らいでる。
02年2月16日
に参照地図としてを追加。マック上でイラストレータで作製した白地図をフォトショップを使って変換後に、超漢字に移動。超漢字の基本図形ソフトで文字情報その他を加工したもの。超漢字の広辞苑(通信販売で別売)は、書籍版広辞苑の文字が全て再現されているので、邯鄲や臨といった文字を広辞苑からいわゆるコピー&ペーストで簡単に持ってくることができる。しかも超漢字ウェブコンバータでインターネット上にアップする時、マックやウィンドウズ上で見る時用に、鄲やを勝手に画像に変換してくれる。今までさんざん外字に泣かされてきた人間にとって、この革命的便利さって、ほんとすげえんですけど。
『アラビアの夜の種族』の紹介と書評、及び著者インタビューがまとまってに出た。ので、幻想文学におけるこの傑作の位置づけだとか、メタフィクションの構造がどうのとか、の話はそちらのプロの書評家の方々にまかせて、門外漢の当方としては、『アラビアの夜の種族』の参考文献探しに集中しよう。
というのは、『アラビアの夜の種族』を成立させるために、著者が資料集めに払った努力というのは並大抵ではないということが検証すればするほどわかってきて、リスぺクトの念とともに、これは誰かに言わずにはおられん、という思いがふつふつふつと湧いてきてしまったわけですな。
『アラビアの夜の種族』を読み終わって真っ先に想起したのは、僕の場合、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』だった。「書物」をめぐる物語りというテーマと、『アラビアの夜の種族』がナポレオンのエジプト遠征、『薔薇の名前』が中世末のヨーロッパ修道院に舞台をとった一種の歴史小説であることで両書は共通している。
『薔薇の名前』は、世界的なベストセラーとなり、ショーン・コネリー主演で映画化もされたけど、日本ではメタフィクション的構造と、記号学者として高名なエーコの著作ということで、難解で高尚な世界文学として取り扱われたと記憶する。僕は『薔薇の名前』を読んで純粋にエンターテイメントとしてすごく面白く、これなら映画化されたのも当然だ、という感想を持ったので、その僕の評価と世間的な評価とのギャップが謎だったんだけど、日本人読者にとって『薔薇の名前』は絶対エンターテイメントではないという主張する友人の言葉で納得した。「それって外国人に水戸黄門見せてさ、この印籠が目に入らぬか、と言ったらみんな平伏するというのがぜってーわかんないというのとおんなじじゃん」
『薔薇の名前』の舞台となるのは、中世末期の修道院。フランチェスコ派に属する修道僧の主人公が、滞在中のドミニコ派の修道院で殺人事件に巻き込まれ、それはやがて異端審問に発展し、という設定。中世の異端アルビジョワ派やワルド派とフランチェスコ派やドミニコ派などの托鉢修道会の問題というのは、欧米では小説の舞台として人気で、誇張して言えば、日本における信長秀吉活躍の戦国物のようなもの(らしい)。
清貧の修道会として出発したフランチェスコ派の運動が、実は全く類似の運動として先行して行われ、異端として弾圧されたワルド派同様、当初は異端とみなされる可能性があったこと。実際にフランチェスコ派内部に清貧の理想を追求するあまり、異端として弾圧されるに至ったグループがあったこと。対照的にドミニコ派は、南フランスで盛んだったアルビジョワ派異端運動に対抗する異端審問のための修道会という性格があり、過酷な魔女狩りの実行当事者であったこと。また、異端との論争のためにスコラ哲学の研究に力を入れ、唯名論と実在論の普遍論争を調停し、スコラ哲学を大成したトマス・アクィナスもドミニコ派の修道士だったこと。そのトマス・アクィナスを批判したのが、唯名論に立って理性を重視し、スコラ哲学を解体したと評されるウィリアム・オッカムだったこと。こういうことは、あらかじめ欧米の読者が了解している基本教養であり、エーコもくだくだした説明は、あまりしていない。
だから、欧米では『薔薇の名前』を読む読者は、フランチェスコ派でウィリアム・オッカムの盟友という設定の主人公が、ドミニコ派の修道院(しかも院長はトマス・アクィナスの棺をかついだ人物)に泊まるという設定だけで、ただならぬことが起こることを了解することになっている。
さて、これらの知識は、日本でも一応受験世界史の範疇ではある。でも難問。で、僕はというと、世界史の講師をやっている上に中世インドにおけるヒンドゥー教神秘主義(バクティ)とイスラム教神秘主義(スーフィズム)の交流史というくその役にも立たない自分の専門の関係で、キリスト教神秘主義や異端思想を集中的に調べたことがあって、『薔薇の名前』に出てくる用語のほとんどが抵抗なく頭に入る。
はい。もちろんそんな読者は日本にほとんどいません。認めます。欧米で抵抗なくエンターテイメントとして読める(はずの)『薔薇の名前』は、日本ではエンターテイメントになりません。
ということで、『アラビアの夜の種族』である。『アラビアの夜の種族』にも、イスラムの風習や史実が、ふんだんに出てくる。ところが、イスラム史に対する専門的な知識がなくても、読める。楽しめてしまう。英語版の翻訳という体裁を取り、著者が自在に注を挟み込むことで、読者の理解を助けているのだが、それだけではない。
著者は日本の読者を前提にしているから、専門用語が物語り理解の妨げになることを注意深く回避し、イスラムの史実や風習を、読者に異世界を感じさせる「オリエンタリズム」(ちなみに、日本ディズニーランドの運営会社は、オリエンタルランド)の要素としてのみ消化吸収還元し、読者に提供しているのだ。しかも欧米のそれ(エドワード・サイードが『オリエンタリズム』で徹底的に批判している。おそらく著者はそれを踏まえて)と違って相対化しながら利用している。そのように著者が努力しているのである。これは、すごいことだ。僕は初読中から著者の努力の痕跡を見いだす度に感嘆し、参考文献調査を続けるうちに、畏怖の念すら抱いた。
ところが、その著者の努力ゆえに、一般的な読者は、著者が『アラビアの夜の種族』を書くためにいったいどれだけの調査を行わなければいけなかったかに気がつかないという逆説が起こってしまう。知らなくても読める。楽しめる。でも、知っているともっと面白い。一般的な読書の喜びとはちょっと違うかも知れないが、知っているがゆえに僕は自分が『アラビアの夜の種族』に最も大きな快楽を与えられた読者の一人であると確信している。で、その喜びは誰かと分かち合いたい。
うーん。何故『アラビアの夜の種族』の参考文献探しに熱中しているか、を書こうとしたら、長くなってしまった。
次の『アラビアの夜の種族』紹介では、本当に参考文献探しの成果が披露できると思います。多分。
02年2月15日
午前中ずっとの実験。超漢字を用いて何とか作製しようと悪戦苦闘。
02年2月14日
昨日図書館で借りた本を1日耽読。『東方の夢“ボナパルト、エジプトへ征く”』(両角良彦、朝日選書)・『ナイルの海戦』(ローラ・フォアマン&エレン・ブルー・フィリップス、原書房)・『カイロ』(牟田口義郎、文藝春秋)・『岩波講座世界歴史16 主権国家と啓蒙』・『オスマン帝国とイスラム世界』(鈴木、東京大学出版会)。羽村市の図書館は意外に歴史関係の蔵書が充実していて助かる。最初の3冊は、『アラビアの夜の種族』の参照本を探す目的で。多分あたり。
02年2月13日
長男は小学校へ、次男は保育園へ。というわけで、やっと子供たちから解放され、ほね休め。朝から例の公共入浴施設(フレッシュランド西多摩という名だった)に出かけ、その後市の図書館へまわる。つくづく学校という機関が持つ託児所機能のありがたさを実感。
ところで、「学校」という機関を「勉強を教えるところ」だと思い込んでいる人が多いけど、それは「学校」の持つ社会的機能のほんの一部でしかない。「国家」が管理する現在の国民教育制度は、何よりも19世紀後半からの近代国民国家形成と工業化社会の出現に伴って現れたもので、託児所機能はその際、「学校」の本質的機能の一つとしてあらかじめ組み込まれていたものだったりする。ということに関連して以下に論じてみました。
02年2月12日
にを追加。子供たち全快。長男はたいしたことなかったけど、次男は軽いインフルエンザの疑いが強く、感染予防のため保育園を休ませる。ところが、全快とともに全開の次男は、ここ数日遊べなかった分を取り返すべく、父が家にいるのをこれ幸いととりつかれたように・・・。
02年2月11日
に97年一橋大学のを追加。にを追加。数年前戯れに日本の純文学と中世ヨーロッパのギルドの類似性を論じた文を書いたことがあって、それを引っ張り出してきて全面改訂したもの。『ペニス』と『アラビアの夜の種族』に純文学側からの反応が皆無という状況に反応して書いたのだけど、書き終えてみると、何をいまさら、という内容になってしまった。そう言えば、最初のタイトルは、「誰もが知っていること」だったのだった。
連休3日間、子供たちの発熱で、結局ほとんど外出せず。
02年2月10日
*地図の部屋に欧州中心の世界地図とユーゴスラヴィアを追加。それぞれの地図の見本画像も追加。
*地図の部屋は容量の問題で閉鎖しました。
02年2月9日
に東京大学と一橋大学の過去問を計6題追加。
02年2月8日 これは公式の歴史ではありませぬ
午前中、次男を病院へ。午後帰宅した長男も念のため検温してみると、37度そこそこながらしっかり発熱。しょうがないのでまたまた同じ病院へ。オフ第一日目は、予想通り潰れる。明日からの3連休の予定を全てキャンセル。やれやれ。
『アラビアの夜の種族』。メタフィクション=「書物についての書物」という、日本で純文学を称する作家達がしきりに試み、なおかつ成功しているとはとても言い難かった文学的手法を、軽やかに、しかも必然性を持って使いこなし、なおかつアラビアンナイトの物語り文学の魅力の再現を試みた野心的な作品。この本の帯には「日本文学にこつぜんと登場した希代の書!」とあるけど、21世紀最初の年は、後世の文学史家によって、の『ペニス』と、古川日出男の『アラビアの夜の種族』の出版年として記されるだろう。
ただし、現時点では書評らしい書評は僕が知る限り皆無。
なぜかと推測するに、
1
特に「純文学」村の住人にとって、本書が文字通り『災厄の書』であり、言及すること自体が許されない、存在しないものとしてやり過ごすしかない作品となってしまっていること。日本の純文学者がやろうとして出来なかったことを、「純文学」村の住人ではない作家が実現してしまったことを認めてしまえば、ギルドとしての「純文学」の存在理由は木っ端微塵になってしまうから、これはまあ、当たり前と言えば当たり前か。
同様の理由で、村上春樹や村上龍や高橋源一郎や、下手をしたら中上健次の諸作品のいずれよりも作品内容では「純文学」そのものであり、出版前からすでに「ダヴィンチ」で特集が組まれていた津原泰水の『ペニス』も、「純文学」村外の少数の評論家や書評家からは絶賛されながら、「純文学」村からは完全に黙殺された。あるいは後世の文学史家は、ジャンルとしての「純文学」は、両書によって死を宣告された、と追記するかもしれない。追記してほしいな。そうであれば、それは世の中は今より少しはましになっているということだろうから。
2
単純な話、書評家にとってこの書を評価するためには、かなりの下調べが必要であること。
作品中で作家は繰り返しこの書は『The Arabian Nightbreeds』という作者未詳の作品の翻訳であると語る。作家本人の巻末解説では、19世紀半ば頃にフランス人あるいはイギリス人地理学者と推定される原著者が、アラブ人の民間説話を元に編んだ作品で、20世紀初頭に欧米文壇で伝説的な作品として扱われ、各国語に翻訳されて広がっていったという経過が述べられ、念のいったことにサウジアラビアで偶然原書を手に入れるまでの顛末まで語られる。
もちろん大ぼらである。
『アラビアの夜の種族』は、ナポレオン軍の侵攻間近のエジプトを背景に、「ナポレオンに対抗するため」ということを口実に実在しない『災厄の書』を作り出す、という作品構成をとっている。実在しない『災厄の書』を、語り部達が創作していく構図と、実在しないThe Arabian Nightbreedsを作者が翻訳していくという構図は、ぴたりと重なり合う。巻末の作者解説も『アラビアの夜の種族』という書物の一部。それを含めて書物をめぐる多重構造の物語り。
確信犯なのである。
が、本当に翻訳ではないという裏をとるのはけっこう大変。
イスラム世界を舞台にしている関係上、当時のイスラム世界について説明するさい、あちこちに、近年の歴史研究の成果が応用され、場合によっては具体的にこの本のこの箇所の影響を受けたのではないかと推定できる部分があること。(仮にも「世界史」で飯を食っている人間として、しかも一応学生時代はイスラム史を専攻した者として、『アラビアの夜の種族』が参考にした文献は何か、というのは大いに興味を刺激されるテーマなので、これはいずれ日を改めて検証してみたい)。
各国語に翻訳され、「神話」にまでなった筈のThe Arabian Nightbreedsをインターネットで検索しても、ものの見事に一件もヒットしないこと。これで僕は『アラビアの夜の種族』が翻訳であるということ自体が虚構だ、と確信したけど、僕のような素人ならともかく、プロの書評家は、これではまだ裏づけとしては不安だろう。アラビアンナイトの再現でもあるので、難しいことを抜きにして、誰が読んでも面白い作品だと思う。が、書評家にとっては極めてやっかいなたくらみに満ちた書。
というところで『アラビアの夜の種族』紹介の第一回は終わり。
02年2月7日 遠方より
河合塾横浜校で今シーズン最後の授業終了。これでしばらくオフだ!と思って帰宅したら、下の息子がインフルエンザ。保育園で流行していて9日に予定されていた登山が中止になったばかりだったので、ある程度覚悟してたものの、いや、なかなか都合よくはいかんもんです。
10時過ぎに津原より電話。講談社文庫版『妖都』の解題を引き受けたことで、講談社から出る新刊の『少年トレチア』を著者献本でもらえることが判明。ラッキー。悪いこともあれば、いいこともある。その後あれやこれやと、ちょっと過激過ぎてここでは書けない話題で盛り上がる。気がつくと日をまたいで1時過ぎ。久しぶりの長電話を堪能。
02年2月6日
を改変。時代別と大学別に分類。過去数年の東京大学問題を追加。
02年2月5日
にを追加。
になど追加。
02年2月4日
をリニューアル(まだちょびっとだけだけど)
2000年東京大学のや、2001年一橋大学のを追加。
02年2月3日
『アラビアの夜の種族』読了。期待をはるかに越えた傑作。感想はまた後日。
02年2月2日 今日は倒れた旅人たちも
秀英予備校で最後の授業。
02年2月1日
長男と次男をそれぞれ小学校と保育園に送り出したあと、11時まで延々パソコンに向かって仕事。テキスト作ってたり、論述の解答をやっていたり、模試の問題作ったり、教材作成関係の仕事は今年も多い。ちょっと多すぎるかもしれない。秀英を辞めることで時間の余裕は出来るはず、という見通しに早くも暗雲が。11時過ぎからは、気分転換に徒歩10分のところに出来た公共入浴施設へ。ゴミ処理場の余熱を利用し、地域住民還元をうたい文句にした施設で、露天風呂からサウナから食堂も備えた、近ごろ流行りの日帰り公共温泉に倣った、温泉は湧かなかったので、給湯口に鉱石を貼りつけて準天然温泉を謳った施設。平日ということもあってがらがらで、採算を度外視した無駄な豪華さとともに、さぞかし日本国家の赤字増大に日々貢献しているんだろうなと実感しながら入浴。ついでにマイナス点を挙げると、「こーゆー公共入浴施設の偽物温泉が日本の温泉文化を殺すのじゃ。循環湯ならではのレジオネラ菌繁殖問題も怖いぞよ」と、『温泉教授の温泉ゼミナール』(松田忠徳、光文社新書)。
受験世界史的な発想だと、景気対策のための公共事業は世界恐慌期にアメリカのルーズヴェルト政権が行ったTVA(テネシー河域開発公社)と、ドイツのヒトラー政権によるアウトバーン(原則速度無制限のドイツの高速道路)あたりが始まり。実際に事業として成功したのは圧倒的にドイツのアウトバーンで、失業者吸収と景気刺激という当座の目的とともに、後のドイツ経済を支える社会資本となった。TVAの方はというと、ダムを作って発電したら、経費が高すぎて赤字の垂れ流しになってしまってトータルで考えるとかえってマイナスではなかったかと。しかも37年あたりからアメリカ経済は再び不況が悪化して失業者も増加。そこでルーズヴェルトが打った奥の手が、ヒトラーのマネをした軍需産業の拡大(この辺、東京書籍の世界史B教科書には触れてある)で、第二次世界大戦でアメリカが武器貸与法に基づき連合国の兵器工場としてフル稼働したことがアメリカ経済を真に回復させたんであると。
そう考えると、今まで戦後日本がモデルにしてきたTVA型景気回復政策というのは、そもそも間違いではなかったのか、という話になってくるね。ちなみに今不況対策としてしきりに言及されているワークシェアリングは、世界恐慌期にフランスのブルム人民戦線内閣が実施し、労働時間制限と有給休暇の普及でフランス人のバカンスの習慣、ここに始まる。
でも純個人的本音としては、徒歩10分のところの公共入浴施設って、やっぱりものすごくありがたし。出来てしまったモノはしょうがない。せめて少しでも赤字減らしに貢献すべく、利用いたすとしよう、ってダメ?
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