アテネ(アテナイ)
イオニア人の代表的ポリスで、ミケーネ文明時代にはアクロポリスの丘に王宮が築かれ、アッティカ半島の周辺農村を支配する王国を形成していた。バルカン半島の民族移動の激化でミケーネ文明が崩壊する混乱期にも、王国は完全には破壊されず、暗黒時代には避難民の流入もあって人口が増大し、小アジア沿岸へのイオニア人植民の拠点となったとも考えられている。
前8世紀頃、貴族が指導するシノイキスモスが行われ、国家が形成され、アルコン(最高行政官、当初3人でのちに9人)が指導する貴族政が成立した。この頃からギリシア諸市の黒海や地中海沿岸への植民活動が活発化し、アテネでもこれら植民市を窓口にオリーブ油やワイン、陶器を輸出し、穀物を輸入する交易活動が盛んになった。さらに前7世紀には小アジアのリディア王国から鋳造貨幣が導入された。そのため、商工業に従事して富裕となり、安価となった武器を購入して重装歩兵として軍に参加し、発言力を強めた平民が出現する一方、没落して土地を失う無産市民となり、さらに借財の返済不能によって貴族や富裕者に隷属する者も出現した。
このような状況が貴族政の動揺を招き、前7世紀末にはキロンが僭主政樹立のクーデタを試み、続いてドラコンによって法が成文化された。前594年には貴族と平民の調停者としてソロンがアルコンに選ばれ、重荷降ろしと呼ばれた借財の帳消しを実施し、身体を抵当とする借財を禁じて、アテネ市民団と奴隷との差異を明確にした。さらに市民を土地財産によって4等級に分け、それに応じて市民の権利と義務(軍役)を定めた(財産政)。
ソロンの改革は貴族と平民の双方の反発を受け、ソロン引退後は党争が続いたが、貧民勢力を率いたペイシストラトスが前561年に僭主政を確立した。ペイシストラトスは亡命した貴族の土地を没収して土地を貧民に配分し、小農民保護を行い、国力の充実に努めて巧みに民心を獲得したが、あとを次いだ息子のヒッピアスは暴君化して人々の支持を失い、510年、追放された。その後、政権を獲得したクレイステネスは、貴族勢力の温床となっていた4部族制を解体し、地区(デーモス)を基盤とする10部族制を新たに創設してこれを行政、軍事の基礎とし、各部族から50人の代表を出す500人評議会を組織して、高官経験者などの終身委員からなるアレオパゴス会に対抗させた。また、僭主出現を防ぐための人民投票としてオストラキスモス(オストラシズム・陶片追放)を制定し、民主政の基礎を確立した。
前500年から始まる、ミレトスを中心とするイオニア植民市のアケメネス朝ペルシアへの反乱には海軍を送って支援したが、反乱は鎮圧された。アケメネス朝のダレイオス1世は懲罰のため遠征軍の派遣を決意し、第一次遠征軍は嵐に遭遇して失敗したものの、第二次遠征軍は元僭主のヒッピアスの擁立を図ってマラトンに上陸した。これを迎え撃ったアテネの重装歩兵部隊が勝利したのが、史上名高いマラトンの戦い(前490)である。
その後アテネは、ラウレイオン銀山の銀をテミストクレスの主張に従って海軍増強の費用としてアケメネス朝の再襲来に備え、クセルクセス王の親征軍に一時はアテネ市を占領されたものの、無産市民が軍船の漕ぎ手として活躍したサラミスの海戦(前480)に勝利をおさめ、翌年にはスパルタと協力してプラタイアの戦い(前479)にも勝利した。
その後、アケメネス朝海軍の攻撃に備えて結成されたデロス同盟の盟主となることで、デロス同盟に参加した各ポリスを勢力下に置き、今日アテネ帝国と称されるような支配圏を確立し、同盟資金を流用して繁栄した。内政においては、18歳以上の男子市民が参加する民会が最高機関となり、ペリクレス指導下で直接民主政を完成させた。
しかし、アテネの強大化は、スパルタを刺激して対立が激化し、ついにスパルタ率いるペロポネソス同盟と、アテネ率いるデロス同盟間にペロポネソス戦争が勃発した。戦争の初期、アテネを襲った悪疫によってペリクレスが没すると、アテネではデマゴーゴース(扇動政治家)が相次ぐようになり、民主政は衆愚政に堕落した。
前4世紀の後半、マケドニアが台頭すると、デモステネスが代表する反マケドニア派と、イソクラテスが代表する親マケドニア派が対立したが、反マケドニア派が勝利し、宿敵テーべと結んでカイロネイアでフィリッポス2世軍と戦ったが敗北し、以後マケドニアの支配下に置かれることになった。
アテネは、古典古代文化の中心地であり、三大悲劇詩人の、、や、喜劇の、三大哲学者の、、らはいずれもアテネで活躍した。プラトンが設立したアカデメイアは、その後も長くギリシア哲学の一中心であったが、6世紀に東ローマ帝国のユスティニアヌス帝のキリスト教擁護政策の一環として閉鎖された。
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